所感諸々。11

救う、救われる、HELP、SAVE、RESCUE。

救いを求めたい気持ちになることは、だれにでも起こりうるし、誰もが経験しているだろう。
逆に、誰かを助けたり、思いがけず誰かから助かったと感謝された経験もあることだろう。
今までに一度もないわ、という人がいたとしたら…
それは幸せなんだろうか、不幸せなのだろうか。

救われたいと思う状況を考えてみた。
ちょっと話しはそれてしまうけど、E・キューブラー・ロスの『死の受容』五段階モデルというものがあって、病を得て死を覚悟しないといけなくなった場合の人の心の動きを、大まかに5つに分けて説明しているものだ。

まず、自分の命が残りわずかであることを知ると、

第1段階 否認と孤立
頭では理解しようとするが、心では受け止めきれずに葛藤する。何かの間違いだと反論したいが、反論したところで事実がひっくり返えすのは難しいので、事実から目を背け逃避、孤立をする。

第2段階 怒り
死という事実は辛うじてのみこめた。が、なぜ自分が死に至るような病を得たのか、なぜ自分にこのような出来事が起きるのか、と怒りに囚われるようになる。

第3段階 取引
今までに信仰心がない または、無神論者だったとしても、神仏にすがってしまうような状態。日頃の行いを改めるから、対価として死を遠ざけて欲しいというような、取引をしようとする。

第4段階 抑うつ
神仏にすがっても、死を回避できない事実を知り、絶望し憂鬱な気分になる。絶望し、虚無感に囚われることもある。

第五段階 受容
『死』を頭と心ともに受け入れることができた状態。
死は、自然の摂理の中の出来事であり、いわゆる悟りの境地に至り、心に平穏が訪れる。

賛否もある話しのようだけど、これは『死』だけではなくて、なにか窮地に陥ったり、大きな悩みを抱えた場合の心理的な動きにも通じることで。
まぁ、悩みの中でも一番重要で大きなものが『死』なのだから、当然ですね。

生きづらいと感じる事柄や、それを抱える人は、なかなか最後の段階にまで至ることが出来ず、その前の段階を行ったり来たりの感情に苛まれてしまうことだろう。

救われたい、もしくは寄り添ってチカラになりたい、と思うひとは一定数居て、でも上手いこと需要と供給が噛み合っていないのは、いつの時代にもあること。
対になる両極のチカラは、引き合ってバランスを取っているはずなのに、アンバランス、不安定な感覚を覚えてしまう。

それはおそらく、自分自身がアンバランスになっているから。
内包している自分のチカラなのか、考えなのか、感情なのか、どれかが強くなりすぎてて、バランスを欠いている。

中庸であるとか、平穏であるとか、なにも起きない凪のような状態は、ともするとつまらない状態と思いがちだけど、実はその状態にするための努力を考えると決して『なにもしていない』状態ではないと思う。

海での凪の状態なんて、あらゆる自然条件が整わないと無風で波も起きないなんてことおこらないし。

壮健でハツラツとした肉体を持つことも、それこそ健全な肉体に健全な精神は宿るとか言うように、摂取する食べ物のバランスや適度な運動、休養をカラダに与えることで、『働く細胞』が活躍してくれて維持できるのであって、決してなにもしていない状態では出来上がらない。

イチローのように弛まぬコツコツとしたルーティンが、穏やかな感覚を保てたりするんだろう。

なにが言いたいかと言うと、最近相談なのかと思って聞いていた話しが、ただただ救われたいと訴えるのみで、建設的な提案をしてもモジモジして受け入れられないでいるようなので、どうしてなのかなーなんて考察してみた次第です。

結局のところ、解決したい悩みとして話している場合は、アドバイスに対してきちんとレスポンスが返ってくるはずで、曖昧な返事をする人は回答を求めているわけじゃない。ただ愚痴を聞いてもらいたいか、慰めて欲しいだけなのだと。
やっと、自分の中でボーダーを決めることができました。


※追記 
悩みは往々にして、その人の中にあらかた答えが定まっていたりするものだけど、いつまでも悩みループから抜け出そうとしない、できない人は、脳みその方でその状態でいることのほうがデフォルトと思い込む悪循環を作り出すと聞いたことがある。
自戒も含め、解決できそうにできない案件は、棚上げしておいて、解決出来る簡単なものから処理していくことを心がけたい。
解決できた成功体験が続けば、自然と意欲が湧いてくるもんです。
そう、目の前で散らかっている本やらをキレイに片付けることからσ(^_^;)




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