所感諸々。8

人が人を裁く。

江戸時代は『公事方御定書(くじがたおさだめがき)』に則って三奉行が刑罰を決めていたが、この御定書の内容は秘匿されているため、犯罪を犯したときにどのような刑罰に処せられるかわからないという側面があり、これが犯罪の抑止力となっていたという話しがある。

現代のように、法律と判例を照らし合わせて
この罪なら、罰はこのくらい。
とわかる状態ではなかったらしい。

ヨーロッパでは、殺人・放火・盗みなどの罪を犯すことは、今よりも人との繋がりを大切にしなければ生き抜いていかれない(自然の脅威や、疫病など)ところをぶち壊す『法外』な行動を犯したことであるから、このぶち壊された人々の絆を元に戻すため、均衡を取り戻すために、罪人を絞首刑や斬首刑に処すという考えがあったと言う。

世の中の秩序を乱すものには、厳罰をもって制裁する。これは、長い歴史の中で決まったルール。

人を殺してはいけないと、法律には書かれていない。
殺人を犯したものには、死刑、もしくは無期懲役うんぬんとは書かれている。
人を殺してはいけないと書いてしまうと、戦争中の殺人や堕胎などに矛盾が生じてしまうから、と説明する人もいる。

他者を亡き者としてやろうと言うほどの感情を持つ、または行動に移すということは、アタシの想像をこえてしまう。
自分が生きていく上で、邪魔なものを排除するという行為であるワケだけど、ただそこには、なにかしらの事情が孕んでいるものだと思っていた。

ところが、刑罰を狙って殺人を犯す人が現れた。
はっきりとその口で言っている。無期懲役を狙って犯行に及んだと。
希望通りの判決で、万歳讃賞までする。

無情だと感じる判決につきものの
『人格障害、心神耗弱、責任能力を問えない。』
確かに犯罪を犯したとは言え、その人にも人権があるという大義名分は理解します。

だけど、納得は出来ない。
無期懲役にしても、アメリカみたいに懲役300年ぐらいですと言ってくれれば、人格矯正のためにロボトミー手術を行うよとか、一番良いのは本人が希望しなかった死刑を宣告するとか、『罰』になることを当てはめてもらいたかった。

人の世の繋がりをぶち壊す『法外』な行為をした、
刑務所で養ってもらうことが目的の犯罪者。
たまに無銭飲食や万引きで、刑務所に戻ろうとする前科者もいると言うけど、それは社会復帰が叶わなかった末にしていたりするわけで。

社会、自分を取り巻く環境への復讐のような気持ちから、税金でのうのうと塀の中で生き延びてやろうとか思っているのかもしれないが、閉鎖空間の中、独居房でもない限り、裟婆よりも厳しい人間関係に置かれることもあるだろう。外国の刑務所ほどじゃないだろうけど。せめて針の筵に置かれるような気分は、味わってもらいたい。
そして、模範囚になったとしても本人が希望したのだから、絶対に裟婆へは戻って来ないで欲しい。

犯罪を犯す人の心持ちも、世の中の動きとともに変わっていくのだとしたら、人を裁く側の方も、いい加減むかしの判例ばかりを踏襲しないで、新たな解釈を持って厳罰を決めて欲しい。
なんとも、モヤモヤがおさまらない。

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