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「佐藤亜紀さんと、歴史×文学で歴史小説について考える」開催報告その②

「佐藤亜紀さんと 歴史×文学で歴史小説について考える」
2021年3月9日に開催され、90名定員いっぱいの参加者を集め、好評を博したイベントの開催報告その②です。今回は報告②秋山晋吾先生「歴史家が読む『黄金列車』の概要です。

【開催概要】
https://kunilabo202103onlinehistoryliterature.peatix.com/?lang=ja

歴史家が読む『黄金列車』

秋山晋吾

 佐藤亜紀『黄金列車』を手に取り、一読しながら感じたのは、いってみれば「安心感」であった。その安心感はどこから来るのか。そのことを考えるため、ある歴史小説を歴史家としてどのように読むか、というお題を与えられた歴史家が真っ先にすることは何か、という問を反芻してみた。おそらく、それは大きくふたつある。ひとつは、小説がいつのどこの何の話なのかを見極めること、つまり、歴史上の何を題材に、何を舞台にしたものなのかを知ること。ふたつめは、その小説が何らかの「史実」に基づくものであるなら、それに関連する一次史料に目を通してみること、である。
 ハンガリー史を専門とする歴史家として、本書が題材とする歴史的出来事を想起するのに苦労することはなかったため、読後に私がのめりこんだのは、上のふたつめ、すなわち、史実上の「黄金列車」に関する一次史料を探すことだった。たどり着いたのが、ハンガリー国立文書館のデジタルアーカイヴで公開されているアヴァルとミンゴヴィチの報告書である。1945年8月2日にハンガリー政府に対して出されたこの報告書は、黄金列車の運行責任者であり、小説の主要登場人物でもある2人の高級官僚が、戦後直後に米軍に接収された列車の積み荷の返還交渉のために、事の成り行きを詳細に書き記したものである。
 一次史料であるこの報告書が語る黄金列車の話は、次のような特徴を帯びている。上役からの指示にしたがって淡々とことに当たる官僚たちの実直かつドライな職務態度、列車運行や積み荷管理の混乱の責任を行方不明中の司令官の責任に転嫁する話の組み立て、そして、大戦末期の撤退戦の真っただ中のことであるにもかかわらず、また、ユダヤ人から没収した財産を積んでいたにもかかわらず、戦闘やユダヤ人移送に関する言及が不在であること、である。
 これらの特徴は、佐藤亜紀『黄金列車』にも貫かれており、そのことが、この小説を史実上の黄金列車とひと続きにさせている。とくに最後の点、すなわち、戦闘の不在、ホロコーストの不在は、歴史小説『黄金列車』を、いわば、戦闘のない戦争小説、ホロコーストのないホロコースト小説にしていると言える。
 一次史料とも通じる『黄金列車』のそうした特徴を確認したとき、頭をよぎったのが、アゴタ・クリストフの小説『悪童日記』である。同じように大戦末期のハンガリー・オーストリア国境での出来事を描いた著名なこの小説にも、戦闘とホロコーストはほぼ不在である。ただ、どちらの小説も、背景としての戦争、文脈としてのホロコーストが濃厚に存在していて、それらへの言及なしでこれらの作品を歴史家として語ることは難しい。ただ、これら二作品が歴史との間にもつ関係性は大きく異なる。それは、歴史的文脈を読者が想起することを期待している小説なのか、それとも、想起するだろうと予想するにとどめる小説なのかという違いである。『黄金列車』は、史実上の黄金列車を題材としていることが明確であるため(すくなくとも現代史研究者にとっては)歴史的文脈を想起することは容易であるし、著者自身による解説(「覚書」)を介して読者は背景知識をさらに得ることができる。それに対して『悪童日記』は、地方町に住む双子の男の子の目を通して戦争が描かれるため、それがどこであったことなのか、いつのことなのか、直接的には語られない。読者はぼんやりとそれが大戦末期のハンガリーのことだろうと予想しながら読むしかないのである。
 歴史学の叙述方法にとっては、いつ、どこのことを語っているのかに言及しないということはあり得ない。つまり、歴史的文脈を想起することを「期待する」叙述は可能だが、「予想するにとどまる」書き方は成立しない。このふたつの叙述形態は、言い換えれば、「歴史家を不安にしない小説」と「不安にさせる小説」ということになるだろう。当然のことながら、不安にする/しないの違いは小説の良し悪しとは無関係である。ただ、『黄金列車』を読んで感じる安心感ともいうべきものは、歴史家として、一次史料と一続きになった叙述、そして、歴史的背景、歴史的文脈と叙述との関係性によるものだったのだろう。

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