『ワイキキごんざえもんの憂鬱』② ウクレレえいじ
第三章「カズちゃんの過去」
「いやあ最近パチスロ全然駄目だよ。世知辛い世の中になったもんだねえ。一応何とか今月は勝ち越してるけどさあ」
カズちゃんはギャラ飲みやパチスロ雑誌の連載だけでは到底暮らしていけず、パチスロで日銭を稼ぐのだった。その日暮らしの極楽とんぼ。ごんざえもんは少し羨ましかった。
「またすずちゃんと喧嘩したのかい?」
カズちゃんはごんざえもんの夫婦事情を知っていた。ほぼ毎日二人はこの舎人公園で缶コーヒー片手にだらだらと話していた。
カズちゃんは方々で借金していたが、ごんざえもんにもよく金を借りていた。借りるといってもごんざえもんも貧乏だから貸すのは三千円から五千円までだった。
ごんざえもんは全財産が一万円しか無くても、カズちゃんにお金を貸すのだった。それくらい精神的にカズちゃんに頼っていた。
「はい、三千円。いやあ助かったよ」
カズちゃんは金を返してくれた。少しパチスロで勝ったのかもしれない。
「はい、これは利子。ごんさん好きだろ?」
よっちゃんいかだった。
「ありがとう」
働き盛りの二人が平日の真っ昼間によっちゃんいかを食べている。
「弟がひきこもりになっちまってさ。実家は大変らしいよ」
カズちゃんの弟の政夫はペルーのナスカで、遺跡発掘調査の仕事を十年間やっていたのだが、
給料はペルーのお金で支払われていた。毎月凄い札束をもらっていたが、家に収まりきらず、十年分を日本円に換算するとたった六万円だった。月給は日本円で約500円だったのだ。
「騙された!」
弟はペルー人の褐色の恋人アニータにも逃げられ、仕事も辞めて失望し、日本に帰りひきこもりになってしまったのだ。
「今、部屋で毎日ギター弾いてるよ。弟、ジェフ・ベックよりギター上手いよ」
カズちゃんの実家は江戸時代から代々続く武器商人だった。種子島、アームストロング砲、爆裂弾等を取り扱ってきた。今はバズーカ砲専門店「小松バズーカ」を経営して国内外に輸出している。
カズちゃんは中学時代、ワガママだった。
テンガロンハットにポンチョ姿でスキー靴を履いて学校に通ったり、雨の日はランボルギーニカウンタックLP400に乗って登校したりした。
だからカズちゃんは職員室で先生によくボコボコに殴られていた。
それを小耳に挟んだ父の十兵衛は逆ギレ、最新鋭のスカッドミサイルを息子の通う中学校に撃ち込んだ。学校側も迎撃ミサイルで応酬、当時ちょっとしたニュースになった。
カズちゃんは昔落語家で有望株だったが、問題を起こして師匠に破門された。
九頭竜亭炎上《くずりゅうてい・えんじょう》という芸名だった。
小粋なタスマニアンジョークをかました後、客が笑わないと「殺すぞ、コノヤロー!」と凄み、着物の袂からピストルを出すギャグで人気を博していた。
しかし、そのピストルはホンモノだった。
ピストルギャグも客に飽きられてきたので猟銃に変えた。
一度、出番前に贔屓の客に無理矢理酒を飲まされ、カズちゃんは高座に上がった。
「ズドーン!」
カズちゃんは猟銃をぶっ放し、天井に大きな穴が空いた。
寄席は騒然となった。
穴の空いた天井の上のスペース、つまり二階はラブホテルだった。
セックスしてた男女が、松葉崩しの体位の形でそのまま客席に落ちてきた。
なんと落ちてきた裸の男はカズちゃんの師匠だった。
「おまえは破門だあ~!」
カズちゃんは留置所に留め置かれた。
カズちゃんは落語家時代も問題児で破天荒な芸人だった。
「ごんさん、バイト辞めたのがよくないんだよ。すずちゃんもそりゃ機嫌悪くなるよ」
カズちゃんもバイトはしてなかったが、ギャラ飲みやパチスロ雑誌の連載、ギャンブルで勝って何とかしようと必死に藻掻いて生きていた。
金がなくなりゃ、隣のお寺の渋柿やビワをもいで食べていた。
カズちゃんはこのお寺を「フルーツショップ」と呼んでいた。
ごんざえもんはすずに別居を提案したが、すずはイヤだと言った。
「一緒に居させてください」
と泣きながらすずは言ったのだった。
第四章「苦悩」
ごんざえもんと妻すずが出逢ったのはあるバラエティ番組である。
妻のすずは元アイドル。アイドル時代の名前は「鈴木リンダ」。
広瀬すずと鈴木蘭々と『残酷女刑務所』の頃のパム・グリアを足して3で割ったような顔をしていた。B級映画と徳川時代の刑罰史が大好きだった。
ごんざえもんはB級映画の他に昭和のコメディアンのものまねも得意としていた。
『楽屋での牧伸二師匠』ネタで、「日本お笑いアカデミー賞最優秀マニアック賞」を受賞した。
ごんざえもんはブレイクするかに思われたが、その一週間後、巨大ハリケーンに見舞われてしまった。
三ヶ月近く連日、巨大ハリケーンと原子力発電所の話題で、報道が落ち着いた頃にはすっかり忘れ去られてしまった。
当時ごんざえもんは、元芸人おらんうーたんが作った弱小お笑い事務所「北千住コメディアン居留区」に所属していた。
カズちゃん(ドストエフスキー小松)もパニック谷本も当時ここに所属していた。
その頃から関西芸人を多数抱える大手お笑い事務所のコテコテ興業がテレビを牛耳ってしまった。
ごんざえもんみたいな弱小事務所のマニアックな芸人はテレビに出る余地は益々なくなってしまった。
当時は幾らウケてもオモシロくてもテレビに中々出られなかった。
女子高生に人気のイケメンのモデルみたいなお笑いタレントしか出られなくなっていた。
制作側もスポンサーもテレビ局もコテコテ興業とどっぷり繋がっていた。
同じ事務所の同じ芸人ばかりが出るようになり、飽きてきた視聴者は辟易してテレビを見なくなり、テレビ業界は衰退していった。
それでもまだ少し金儲けは出来るらしく、昔の構造のまま何も変わらないのだった。
それでも骨のあるテレビマンはまだまだ居た。売れない芸人にチャンスを与えた。いつの時代も革命児はいる。
『全力ボーイ』というバラエティ番組は超人気番組だった。
この番組に出れば、オモシロくなくても一気に全国区の芸人になれるのだった。しかし…。番組は過酷な企画ばかりだった。
売れない若手芸人がワニと一緒に三ヶ月間檻の中で暮らす「ワニと暮らせば」。
食べ物はワニの餌か、ワニだった。
ワニとの凄絶なサバイバルが話題を呼んだ。
収録番組だから放送されなかったが、ある芸人はワニに片脚を食い千切られた。
しかし、その芸人はトカゲの尻尾みたいに足の代わりにワニみたいな尻尾が生えてきた。
彼は人間ではなく生態もワニに変わっていた。
企画は中断、途中からお蔵入り。社会問題になった。
最高瞬間視聴率は88%だった。
旅シリーズが一番人気があった。
ゴールしないととんでもないペナルティを課せられる。
明治時代、網走監獄から脱獄した、実在した脱獄囚と同じルートで脱獄して旅して生きる「リアル脱獄旅」。
本当にその芸人は犯罪を犯してしまい網走刑務所に収監され大問題になった。
「お笑い浅間山荘事件」「お笑い帝銀事件」「お笑い南米麻薬シンジケート潜入捜査」…。
お笑いでもなんでもなかった。しかし、若い芸人たちは一攫千金を夢見て無茶を承知でチャレンジするのだった。
最近はテレビ倫理委員会から注意され、企画も少しおとなしくなった。
第五章「すずの過去」
妻すずは大阪出身。ハーフである。大阪は西河内の方で、父鴈治郎はだんじりのお祭り男。毎日昼間から飲み歩くアル中の河内のおっさんだった。
母ナターシャ・ミネンコはウクライナ人で戦火を逃れて日本にやってきた。母ナターシャは西河内のロシア色情酒場「ワーニャ伯父さん」で働いていた。
父鴈治郎の家は代々山林王の資産家で、仁徳天皇稜に住んでいた。毎日毎晩飲み歩いていた。その時にナターシャと出逢った。その店の従業員は元脱獄女囚のロシア女ばかりで、ウクライナ人のナターシャはすこぶるイジメられていた。因みにフロアー長のソーニャ・スターリンは元シベリア監獄の女看守長だった。
仕事が終わるとナターシャを折檻するのだった。
「鴈治郎さん、助けて欲しいの」
鴈治郎は山を売って金を作り、850万ロシアンビットコインを支払い、ナターシャを貰い受け15番目の妻にした。
鴈治郎はソマリア人質酒場「海賊船」で働いていた14番目のの妻ソマリア人ケアノーレに離縁を言い渡した。
鴈治郎はまた山を売って手切れ金として新しい遣唐使船を造り手渡した。
ケアノーレはソマリアの海賊の娘だった。新しい海賊船に乗って、ソマリア焼酎をお湯割りでチビチビ飲みながら故郷ソマリアに帰っていった。
因みにケアノーレとは「私は飲んでいる」という意味で、アフリカ人は文章になってる名前が多いらしい。
父鴈治郎と母ナターシャ・ミネンコの子供がすずだった。
鴈治郎は冬の大寒波の夜に飲み仲間と「おとなの修学旅行」に行った旅先のアラスカで、酔って凍死。今も凍ったままだという。
鴈治郎の死後、借金の山が発覚した。母ナターシャと幼いすずは大阪から東京へ夜逃げ。
ナターシャは女手一つで東京の御徒町にある『ウクライナ酒場ドンバス』で働き、すずを成人まで育て上げた。今ナターシャはまだ戦火の中の母国ウクライナに戻り、小学生時代の仲間と一緒にマリウポリで戦っているという。
〈続く〉