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大晦日に泣いたこと

私は実はクリスチャンです。
洗礼を受けて、10年以上経ちます。

信仰は相変わらず揺らぎなく、むしろ私の軸となって人生を生きていますが、母教会へは実に7.8年ご無沙汰していました。

教会といえど人間の集まりなので、そこでの様々な出来事に疲れ果てて教会を離れました。

まあ、そのうち自分にあった教会が見つかるだろうくらいに思って、のんびり過ごしていたのですが、そろそろ60代にもはいったし、後片付けをするつもりで、先週礼拝に参加しました。

教会のすごいところは、たとえ10年近く礼拝に参加してなくても、まるで昨日あった人みたいに教会員の人たちが接してくれること。

ベースが「神様の御心のまま」なので、いつでも何でも受け止めることができるのは私も一緒ではありますが、やっぱ不思議ちゃんだよね(笑)

それはともかく、席に座って週報という礼拝に毎回配られる会報のようなものを見ていたら、お知らせの欄に告別式のことが書かれていました。

目に入ってきた「故○○さん」と言う名前に、一瞬フリーズ。

なんと、その方は今年の真ん中くらいまで連絡を取り合っていた姉妹(教会では女性の会員同士を姉妹、男性を兄弟と呼びます)でした。

しばらくぶりに行った礼拝で、親しくしていた姉妹の訃報を知るとは・・・・

声も出ませんでしたが、膵臓癌であっけなく帰天なさったそう。
なんか、実感がありませんでした。

礼拝の最後にご主人が教会へのお礼を述べていましたが、ここで私はものすごい違和感を感じて切なくなりました。

何故ならこの姉妹は、お礼を述べているご主人との関係を、長らく悩んでいたから。

お子さんもいず、途中からお母さまを引き取って3人で暮らしていましたが、このご主人がいわゆるパワハラ夫であったのです。

ずっと彼女を無視して話を一切しないという人だったようです。

挨拶中、ご主人が「私としても妻が65歳で亡くなったことは遺憾で・・・」というようなことをお話しされていましたが、

私にはこの「私としては」という言葉が気になって、やっぱり心が痛くなりました。

あなたのことは関係なかったのに・・・・・

彼女との最後は「またお話しましょう」みたいなメッセージだったと思いますが、彼女がお会いするたびにご主人のことを色々と話していたのを思い出しました。

彼女は最後に、ご主人を許したんだろうか・・・・・

それとも、最後までご主人のペースに悩まされていたのだろうか・・・・

本当のところはわかりませんし、まさか亡くなると思ってなく、礼拝に行けば会えると、安易に考えて連絡さえしなかった私が言えることは何もありません。

複雑な気持ちで岐路につきました。

クリスチャンといえども人間です。
と、いうか、人間の本質は変わらない。この夫婦の関係はそれを証明しているようなものだった。

だからこそ、私には信仰が必要です。
自分の弱さや卑屈さを認めて、許していかなければならないからです。

日曜日の礼拝から二日目の今日、朝ご飯を食べてTVを観ていたら、急に彼女のことが現実感を帯びて涙があふれてきました。

やっと実感として、彼女の死を知ったというか・・・・・

私が苦しかった時、黙って助けてくれたのに・・・・結局お礼は言えなかった。

いつも冷静に物事をとらえていて、粛々とクリスチャン生活を送っていました。

もう会えないと言う現実を、初めて感じて号泣しました。
でも、ありがとう。心から。

今は神様のところで、やっと解放されて伸び伸びと、大好きなヴァイオリンを弾いているのじゃないかな。

あと30年もすれば、私も帰天するだろうから、その時は旦那をコキオロシテ?大笑いしようね。

今年も後9時間くらいを残すところとなりました。

クリスチャンになってからは、盆暮れ正月はあんまり関係ないけど、今年はお休みが長くて普段考えないことや、やり残していることをやっています。

今日くらいはおとなしく、祈りの中で2024年を締めようかな(#^.^#)

何が来年待っているかわからないけど、姉妹に恥ずかしくないように、思いっきり楽しんで健やかに生きていこうと思います。

皆さんもよいお年を!
色々ありがとう~な1年でした!


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