研究論文と言われるものの受け取り方
最近では、運動や医療の現場で、Evidence based practice:EBP(臨床における根拠に基づいた実践)の重要性が言われている。(注釈:医療においてはEvidence based medicine:EBM)
アスレティックトレーナーの分野でも、アメリカのアスレティックトレーナー協会では、15年くらい前から講習のベースはEBPであること、と言われてきているし、日本においてもここ5~8年くらいはその傾向がみられる。
個人的には、そのとらえ方に常に苦悩している部分があって、それをうまく説明できないでいた。
が、昨夜、動作学のオンラインサロン「動作学プラネテス」の仲間たち(プラネテスの住人)と「対話と会話」について話をした延長で、仲間が送ってくれたリンクに胎落ちする文章があった。
「討論(相手のロンを討伐する)から築論(建設的議論)へ」
とても読みやすい文章(だと私は思っているので)なので、ぜひ全文を読んでいただければと思うが、この中で、著者であるshinshinoharaさんは、こんな文章を書いている。
「民主主義とは、たった一人の人間では達成できないことを、「衆知」で達成しようというものだ。
これこそが科学の営みでもある。たった一人ができる実験・研究はわずかなもの。けれど、多くの人が研究し、論文を出すことで、たくさんの論文を見比べて見えてくる事実がある。「もしかしてこれは?」まさに「群盲象をなでる」と同じメカニズムで科学は進む。」
と、書かれている。
その前後の文脈がない中で、これだけを抜粋すると、何が何だかわからないかもしれないが、ちょっと話を広げてみよう。
最初の私の投げかけは、「Evidence Based Practiceという研究論文や実験結果をもとに考えている現場での考え方、研究に対する捉え方に何とも言葉には説明しきれない違和感を感じていた。」というもの。
そしてその疑問を再燃させたきっかけは、「対話と会話」というテーマだったということ。
少し研究について話してみよう。
例えば、研究Aがあり、その実験結果が語られている。
そして研究Bがあり、その研究が、Aをサポートするものかもしれないし、Aを否定するものかもしれない。という状況がある。そのどちらも存在し得る。
ここで大事なのは、研究論文、研究の結果を語っている側のスタンス以上に、研究結果を受け取る側・読む側のスタンスだと私は思っている。そしてそのスタンスとは、「研究とは、研究者の対話の形である」というスタンスを持つことだと思っている。(と、仲間との会話と上のリンクのnoteを読んで行き着いた)
研究とは、研究者が疑問に思っていることについて、過去にはどのように語られていたのか、類似の研究はあるのかなど、」過去にあった研究の結果をベースにして、それらも参考にしながら研究者が自分の疑問に仮説を立てて、「だとすると、こんなことが起こるのではないのか?」を検証するための研究設定をする。
そもそも、なぜ研究者は研究をするのだろうか?
同じテーマだったり、同じ設定だったり、期間を変えてみたり、対象者を変えてみたり、そうやって研究を重ねている。
メディアやネットなどで、ヘッドラインに私たちが見るのは、「~をすると~に良い」と研究者が解明、とか、「脳の活性には~を食べたらいい」と~企業の研究結果が発表。「~の疾患には~運動法が効果的」みたいに、ある一つの研究結果で出されている結果について言及されていることが多い。
そして、一般の人にとっては、この言葉が全てで、「~したらいいんだって」「~食べるといいよ」という話題になる。
多くのスポーツ施設や、スタジオでこのような話題が話され、最悪なのはお客様よりも専門知識を学んでいるであろうインストラクター・トレーナー達が、この話題をまるで正解であるかのごとく話すことにある、と思っている。
そしてその理由は、研究というものを「研究で語られているものは結果が出ているものだから、その結果に間違いはない。」という風にとらえていることにある気がしている。
それを「研究とは、あくまでも研究者の対話のやり方であり、研究者Aが言っていることがあるならば、研究者Bはそれについて何を言っているのだろうか。そこから見えてくるものは何で、そして研究者Cはどんなことを言うのだろうか。」というとらえ方ができるかどうか、が重要になってくる気がしている。
研究論文を読んでいただけるとわかるのだが、研究論文の基本的な組み立てとして、
① イントロ(序章)で自分はこういう前提を持っています(歴史的背景などを語る)
② そこから浮かんだ疑問があります(問いを立てる)(仮説)
③ それに対して自分なりに考え/検証しました(方法:実験)
④ そうしたらこんな発見があって(結果)
⑤ で、そこからこんなふうに考えた(考察)
その考察の中で、結果からはこう見えているのだが、過去の研究者の話をひも解いてみると、こんな風に同じことを言っている人もいるけど、それとは逆のことを言っている人もいて、その類似性や相違性の要因はこんな風に考えられて、そこからまた問いも見つかって、そう考えると次はこんな研究も必要なんではないか、と他の人に問いを渡す。
そんな風に研究論文は時空間を越えて脈々と積み重ねられて、異なる視点から、異なる切り口から人が関係するこの環境のすべてのことに目を向けて、真実、しかもおそらく真実は1つではないけど、その真実を探すことをしている。
そんな研究から見えてくるもの、それが臨床における検証結果であろうとも、受け取る側としては、常に1つの意見(論文)を聞くのではなく、対話となる相手の意見を聞く姿勢を持つこと。
そしてその意見を聞いた自分は、自分の経験、自分が持っている視点、自分の環境、自分の観念から考えたときに、どんな風にそれに対して答えるのかを自分の中で対話をすることが大事なのだと思う。
Evidence(科学的根拠)は大事。
Evidenceが示してくれるもの、考えるヒントをたくさんくれる。
そしてそのEvidenceが、自分の方向性に後押しをしてくれることも、軌道修正してくれることもある。
だけど、それはあくまでもいち研究者の意見であり、大事なのは、対話として存在する一要素としてそれを考え、自分なりに理解をする姿勢を持つことなのではないか、、、と思う。
となると、やっぱり哲学対話みたいな思考は大事になるし、「会話」ではなく、様々な視点をもって物事を考える、物事を見るのではなく、物事に対して様々な視点を持つことが大事なのではないかと思う。
そしてその対話に大事になるのは、やはり身体性なのだ、と思う。
最後に、フランスの哲学者アンリ・ベルクソンが言ったという言葉が「哲学者に学ぶ問題解決のための視点(大竹稽さん著・Bow Books参照、P39)を皆さんと共有したいと思います。
ベルクソンの答えは、直観だ。
直感ではなく直観。ところどころで反応するのが直感。そこでは、点と点が分断されている。一方の直観は、点と点が線として繋がっている。そして、それを可能にするのが、体に記憶された体験だ。その都度、ポイントごとにでてくる直感と違い、直観は持続するものだ。直観には流れへの意識が欠かせない。」
なんだかワクワクする言葉たち。
身体性と科学
身体性と対話
身体性と精神
からだを入り口に、人の可能性は無限大。
(読み返さずに再校正していないので、誤字脱字があったらすみません、、)
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