脳はサプライズが嫌いだけど、世界はサプライズであふれている
2019年の秋以来の海外。
オーストラリア ブリスベンへ。
疼痛教育とそのプログラムを推進しているNOI(Neuro Orthopaedic Institute)の新しいプログラム、「Explore Pain」を受講しに。
NOIとの出会いは、6年前なのかなぁ。
近代疼痛学のパイオニアであるLorimer Moseleyが、David Butlerとともに話すという、EP3というイベントを動作学仲間である川尻隆君と聞きに、メルボルンへ行ったのが最初。
そのあと2020年初頭のコロナで世の中がひっくり返りそうなぎりぎりのところで、オーストラリアからTimを講師として呼んで、Explain Painの第一回を日本で開催することができて、そのあとはオンラインでの開催を続けている。
人の健全(Wellness)、Well-beingを考える上で、私たち運動指導者、健康・医療にかかわる人間として大事なことは何だろう、、、とずっと考えてここまで来た。
身体的な痛みは、外に見えるわかりやすいサイン。
腰が痛い
頭が痛い
膝が痛い
胃が痛い
生理でお腹が痛い
それに対して、多くの場合
原因となっているものを取り除く
手当をする
薬を飲む
休む
様々な手段を我々は持っている。
同じ頭痛でも、人によって強さも違えば、種類も違えば、緩和する方法も違う。
さらに同じ人でも、時期や状況によって頭痛の強さや種類も違えば、緩和する方法も違う。
もし頭痛を作り出している原因が、頭の周りの筋肉の緊張によって起こっているのであれば、筋を緩めてあげれば頭痛は緩和する、はず。
でもそれだけでは緩和しないことは多くの人が経験している。
調子がいいときはずっと頭痛は起こらないのに、ある時期突然 頭痛が消えなくなって続く。
そんな経験も多くの人がしてきているはず。
NOIのExplain Painでは、私たちの「痛み」は、我々が持っている「バケツ」の容量があふれたときに、危険の知らせとして現れる一つのサインと説明している。
そのバケツの中には、BPS(BioPsychoSocial:生物心理社会)モデルの要素がすべて入ってくる。
痛みがあって病院に行って検査をしても何も原因が見つからない、つまりは生物的・生化学的・細胞的には要因は見つからない。だけど、痛みは続く。
睡眠不足、栄養不足、それらも生物的な状況に影響を与えるから、検査では見つからなかったけど、睡眠不足なのかもしれない。
そういった生物的な要因でない場合、人は「心理的な問題」と考える。
ストレスが高かったから、ずっと緊張していたから、自分を責め続けていたから、ずっと誰かから非難され続けていたから、経済的に不安が高かったから、、、と。
そして私たちは社会という枠組み(環境)にも影響を受ける。
親からのプレッシャー、仲間からの目、自分の役割、社会の常識、自分という人という存在の意義。そういったものも、私たちの持っているバケツを満たして、バケツを満たす要素が、危険と感じるものであれば(Danger in ME:DIM)、それに伴って心身の変調を感じ、それがあふれ出たときにその症状は増大する。そのバケツの量のバランスをとるために、自分にとって快適と感じること、喜びと感じることを生活の中に増やしていくことが大切(Safe in ME:SIM)
こういった考え方の裏には、脳神経系の細胞の構造と仕組みなどが関わるのだが、そういった仕組みのさらに根源的なことを話したのが今回のExplore Pain。(リンクは次回の開催:メルボルン)
大学で働いていた頃、「同じ怪我、同じような重症度なのに、回復が早い人と回復が遅い人がいるのはなぜだろうか?」
「治療に対しての反応が大きく異なるのはなぜだろうか?」
と考えることから私の旅は始まった。
両親も違えば育ちも違うけれども、同じ人間として
「自分らしく生きている」と感じている人と
「自分らしい生き方がわからない」と感じている人がいるのはなぜだろうか?
「成功している人と成功していない人」が存在するのはなぜだろうか?
と考えた。
その前提として私の中にあるのは、
「すべての人はすべての可能性とすべての必要な要素を持ってこの世に生きている」ということ。
その可能性を持っているその人たちが、なぜその可能性を使えていないのか?どうすれば、もしその人が願うならばその可能性を使うことができるようにお手伝いができるのか?を考えてきた。
その一つの入り口が「動作」だとおもい ここまできた。
その前提の考えとして
「動きはその人の経験している世界を表現する一つの形である」ということ。
動きは、予測により起こり
動きは、その人の経験が前提情報として存在し
動きは、その人の感覚情報を使うことで
動きとしての可能性と精度がそこには存在する。
こういう表現をすると、トンとわからないかもしれないけど、
我々は推論をしながら生きている。
なぜなら脳は「推論機能」として存在するから。
例えば、来月旅に出るとしよう。
初めての海外、初めての空港、初めての街、初めての世界。
そんな状況になったとき、誰もが行うのが「旅に関する情報を集める」だと思う。
その国に行ったことがある人の話を聞いたり
いまであればYoutubeを検索したり
ググったり(昔であれば、地球の歩き方を買ったり)
そういった情報を検索して読み漁っているうちに、私たちは色々な情報を元に物事を推測する。
空港では出国前に、早めにお金を換金しておいたほうがいいのか
混雑する季節だから、予定よりも1時間早めに出たほうが安全そうだな
到着先は思ったよりも暑そうだから、半そでを多めに入れておこう
飲み水の環境が悪いみたいだから、胃薬持っていこう
ホテルを取るならこのエリアが安全そうだな
そんな風に推測をする。
そしてその推測が正解かどうかを実際にその経験を通して答え合わせをする。その推測がビンゴ、であれば、私たちは「やっぱりそうだった」と安心する。だが、その推測が大きく外れると「え?なんで?え、どうすればいい?」と驚きが増し不安も起こる。そのうえで周りを見渡し、どうすればいいのだろうか、、、と新たな推論を立てる。
常に講義では伝えるけれども、「私たちは自分たちが思うほど自分の意志で決めているわけではなく、環境との交流の中で予測をもとに動かされている」と。
この考えを一つ持つと、世界の見え方が変わる。
私たちが行動を起こす理由
私たちの動きが今の動きとなる理由
「口はうそをつくけど、動きはうそを付けない」
これは私の口癖ですが、動きにはたくさんの情報が、たくさんのピュアだけど複雑だけどその人の存在としてのピュアな情報がたくさん含まれている。
そんな人と接するうえで大切なのは、
「痛みに介入する」のではなく、「痛みを持ったその人に介入する(その人を知る・見る)」
「その人の症状を相手にする」のではなく、「その症状を持ったその人を相手にする」
それが大事。
いつしか、症状やその人の状態にばかり目が行って、それにどうやってアプローチするのかやり方、How toばかりが世の中に蔓延して、「その人」「それを経験しているその人」を見ること、「それを感じているその人に関わる」ということを忘れてしまった運動指導と健康・医療現場。
今まさに、世界はそこから大きく転換をしようとしている。
私自身がここ10年以上かけて思っていたことを、約10年前にカール・フリストンが数式を使って「自由エネルギー原理」で表現していたことを数年前に知り、それが一体動く動物としての我々にどういった意味を持つのか、を考えてきて、今回それがすべてつながった時間だった。
そして何より、私たちの脳はサプライズが苦手
だからこそ予測をし、予期せぬこと(サプライズ)が少しでも起こりづらいように予測推論し選択をする。
私の役割は、それぞれの人が予測推論するために必要な経験を設定してあげること。
こんな話をすると、永遠に語れそうだけど、、、。
もっともっと我々は人の可能性を信じて
もっともっと我々は自由であっていい
そんな世界をこれからもっともっと広げていくために、仲間とともに歩んでいこうと思う。
そんな決意をした53歳になった朝。
May the world to be a full of Wonder, Peace and Love.
I believe in the possibility of human nature.
All my love to you and your being.