曖昧さを曖昧なままにする大切さ
感覚が大切だよっていつも話す。
人間が人生を歩み、自分らしい(と、思っている)人生の選択をし、生き延びつづけるためのさまざまな情報は、感覚器官から意識的にも無意識的にも受け取っている。
A-yogaで言い続けてきた事がある。
感じたことを言語化していく事が大切だよって。
ただ言語化は両刃の剣でもある。
人間が生み出した言語というものが、個人が感じたそのものをある種の型(ステレオタイプ)に当てはめてしまうというマイナス点。
例えば
「あの人を見かけると胸がキューンとする」
なんて聞くけど、多くの人が
恋い焦がれる感覚を言語表現したのだろう、、、と想像するかもしれない。
でもそれもきっと誰かが最初にその表現をしたものを、「恋い焦がれると胸がキューーンとするのね」「あ、これ(胸や体の中の変化)がそうなのね」とある種のステレオタイプをあたかもそれであると思っている節もある。
だから胸がキューーンとする相手が見つかっていないから、自分は恋ができない性質なんだ、、、なんて思っている人もいたりする。
つまり自分の「好き」「恋」「愛」とはなにかがわからなくなっているのではないかなぁって。
曖昧な感覚を曖昧なままにして生きることも大切。
同じ感覚が繰り返し起こった時に、そこにある要素(ある人なのか、ある状況なのか、ある時間なのか、ある食べ物や匂いなのか)、さまざまな要素を見渡した時に、そこに意味づけできるなにかがあるのだと思う。
その経験の数をこなすことなく、なにかを言語化や定義化するのは無理がある。
子供も大人も同じ。
経験を繰り返すこと。
1度、2度、3度と経験をするうちに、見えてくるものがある。
その時に自分なりに言語化してみたらいい。
言語である必要はない。
音で表しても
香りで表しても
絵で表しても
なんでもいい。
でもなにかを表現するにしても、まずは入力(感覚的な刺激の経験)が必要。
考えるのではなく、まずは動いてみること
理解しようとするのではなく、まずは感じてみること。
それでも今まで出会ったことのない何かを表現する事は難しい。
そんな時は見つからない言葉、曖昧なままを楽しむこと。
なんかわかんないけど、こんな感じなんだぁ〜って。
全てを知る必要はない。
全てに言語というラベルを見つける必要もない。
自分の中ではふんわりとさせたままでもいい(ただ他者との関わりにおいては、それを何かしら表現する必要がある。言葉、音楽、絵画、踊り、、、全て表現)
どのくらい怒っているか言葉が見つからないなら、踊ってみたらいい。
どのくらい嬉しいか言葉で表現できないなら、歌ってみたらいい。
どうやっても表現できないなら、そのままそれを自分の中ではそっと抱きしめて感じればいい。
そこにきっと自分を作るなにかが隠れているから。
(2年くらい前に書き始めて下書きのままになっていたもの、最後に少しだけ加筆)
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