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贈与とセレンディピティとサマディ(三昧)
不思議なタイトルで始まりましたが、、、
色々な出来事や言葉がお互いに緩衝しあって、なにかを表現しようとしている感覚があって、うまくまとめられるかわからないけど、頭の中にあることを書き出してみようと思う。
最初に言っておくと、私はヨガ・スートラとかヨガ哲学をきちんと学んだことはない。情報としてちょいちょい書籍を読んだり、触れることはあれど、一体それが何か、、、はヨガ哲学の観点から深く考えたことはない。
そして触れているときも、ヨガ哲学の中で書かれている文章を読みつつ、他の分野(心理学、社会学、言語学、脳神経科学)の情報の中に似通った考え方や表現があったなぁ、、、とか、これは現代においてはどんな理論や概念で説明されているのだろうか、そんなことを思いながら読んでいることが多いので、ヨガ哲学に書かれている言葉そのものがなんであるか、、、と向き合ったことはないと言っていいのかもしれない。そんな観点からの文章であることは最初にお断りしておきます。
今朝、動作学仲間の川尻隆くんと定例ミーティングをしていたとき、以前に動作学のオンラインサロン動作学プラネテス内の企画、Synxnationに出演していただいた、以前は勉強家、今は沙門を名乗る兼松佳宏さん(グリーンズの学校 beカレ主宰)とのやり取りについて話をしていた。
そしたら、1時間後、兼松さんから全く別件でメッセージが入った。
そして夕方に、動作学のポッドキャストのアンケートの書き込みに気が付き、見てみるとポッドキャストで「愛について」話してほしい、というリクエストが書かれていて、その時に読み進めようと開いた本(途中になっていた「世界は贈与でできている」)のスタートしたページの話題が「愛」を説明として書かれていたという出来事があった。
昨日からの流れと、今日のこの2つの出来事から浮かんだ言葉が、タイトルである「贈与とセレンディピティとサマディ(三昧)」というもの。
考えてみると、事の始まりは、昨夜、上に書いた動作学オンラインサロン内の企画Synxnation(いろいろな分野の方と、動作学の中心メンバーである川尻隆、大下太市、私の3名が対話をする企画)で、シンガーソングライターの佐野碧さんに来ていただきお話をしたところから。
碧さんは、お母さまとがつながりがあったネパールで地震があったあとに、ソーラーライトを届ける活動をしたり、今は、コロナ禍で日本に入国できない留学生たちの支援活動などを歌の力を通してしている。
その1時間の会話の中で、碧さんがインド声楽をネパールで学んでいたこと、そして今もオンラインで学んでいること、インド声楽は「神を思い歌う」それに尽きるという話をしていた。(ご本人はインド声楽を主としているのではなく、シンガーソングライターとして歌っています)
会話の中で、彼女自身、ある時に気が付き「伝えるという思い」から、「届けるという思い」に変わったことで、相手の人との一体感、届いているという実感に変化があったというお話をしていた。
伝えることから届けることへ。
その違いは一体何か、、、。
同時に、彼女自身、歌を歌っていて「自分が自分でない」「自分が何かと一体となった感覚を味わったことがある」、そんな時は「自分がここにいるのにいない感覚」だったり、「鳥肌がたつ」みたいなお話をしていて、その時には相手からの反応が大きく変わることを実感したとも話していた。
その話と、今日の2つの出来事からふと、「贈与」と「サマディ(三昧)」という言葉が浮かび、この二つに何かしらのつながりを感じた。
さらに、その言葉とつながる出来事として、昨日、ある人と「ヨガの鍛錬を続けている人は、少なからずサマディ(三昧)を目指している」という会話があった。
サマディとは「心が瞑想の対象に完全に吸収されたとき、サマーディ(三昧)だという」と、「ヨーガとこころの科学」(スワミ・シバナンダ著 東宣出版)には書かれている。
佐保田鶴治先生の「解説ヨーガ・スートラ」(平河出版社)には、「ヨーガとは心の働きを止滅することである。」(中略)「止滅(二ローダ)というのは、心(チッタ)のはたらきであるいろいろな心理過程を抑止し滅ぼしてゆく心理操作のことであるが、同時に、すべての心理作用が消滅してしまった状態をも意味する。ここでは止滅は三昧とヨーガの同義語として用いられているが、三昧とヨーガに有想(心理作用が残っているもの)と無想(心理作用が完全に消滅して、潜在意識だけが残っているもの)の二段階があるうち、無想の段階が特に止滅とよばれている。」と書かれている。
なんのこっちゃ、だと思いますが、スワミ・シバナンダの言葉が最もシンプルにわかりやすいかと思いますが、「心が対象に完全に吸収されたとき」つまり、碧さんが「ここにいるけどここにいない感じ」というのは、きっとまさしくここでいうサマーディであり、その状態はヨガの鍛錬をしている人が目指しているところでもある、、、、と。
そのサマーディにたどり着くために、アーサナ(ヨガのポーズ)、プラナヤーマ(呼吸法)、瞑想、などを実践する。(実践する先に、サマーディがある)
それは「私が何者であるかを知り、その存在を知る」ためにあり、宇宙の心理に溶け込むともある。
つまりは、私が何者であるかを知るというのが、ヨーガの真理の一つでもあるということなのだと理解しているが、それはいったい何なのか?どういう原理がそれを創造するのかを考える。そしてこの考えの中には、刹那(時間的概念として、その一瞬という意味合い)という言葉もキーワードとして出てくる。
そこでいくつか言葉遊びが浮かぶ。
私が何者であるか
私は何者であるか
何者かである私が生きる
何者かである私を生きる
この2つの種類の2つの言い回しは同じようで異なる。
「私が何者であるか」「私は何者であるか」
「何者かである私が生きる」「何者かである私を生きる」
この二つは、異なる視点から私が存在する。
私が生きるのか
私を生きるのか
この似て非なるものを感じることの先にサマーディがあるのではないか、、、と。
そして「私を生きる」の私を作り出すのは、私が作り出されるのは、きっと受け取る「贈与」に気が付いた人がたどり着く場所なのかもしれない、、、と。
「世界は贈与でできている」(近内悠太著 Newspicksパブリッシング)の中の一節に、
「贈与は差出人にとっては受け渡しが未来時制であり、受取人にとっては受け取りが過去時制になる。
贈与は未来にあると同時に過去にある。」
中略
「「今‐未来」「今ー過去」が交錯するのが、贈与の本当の姿なのです。」
と言った記載がある。
何を言っているかというと、あるものを贈与する側は、それを未来のあるタイミングに誰かが受け取るという行為になるので、贈与側から見るとその行為の完了は未来時制にあり、一方で受け取る側はその贈与が受け取る時点よりも前の過去時制に起こっているということ。
この文章の前後で、贈与する側とされる側の関係として、贈与する側には倫理が求められ、贈与される側には知性が求められるという言葉がある。そして贈与される側(受け取り側)の想像力も必要となる、、、と。
差出人が誰かわからないけど、それに気が付いて受け取ったとき、そこには贈与が生まれ、そしてその贈与を受け取ったからこそ過去から未来への時間が繋がる。そしてその贈与を受け取った人間は、それを次の誰かへ贈与として過去時制が未来時制へとつなげる懸け橋となる。
ヨーガのいう、サマーディとは「今ここに」という精神性が一つの入り口としてあるとしたら、その「今ここに」には、過去に誰かが発送してくれたそのメッセージ(贈与)を受け取れる知性と想像力があることで、「私を生きる」の「私」を作るなにかの受取人になることができるのではないか、と思った1日。
ちょっと話がこんがらがったけど、「私を生きる」とは、サマーディを目指した先にあるのではなく、過去に誰かが発送してくれたメッセージに気が付くことで、そのメッセージを受け取るという意識的でもあり無意識的な行為の積み重ねの中に「私を生きる」があり、さらにその延長にサマーディがあるのではないだろうか。
知性なくして自我なく
自我なくして真理の追求もなく
真理の追求がなければ、止滅というステージも生まれないのかもしれない。
そのために動作教育ができること。
まだまだ探求は始まったばかり。