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背徳純愛小説『藍に堕ちて』第二話「夫婦のかたち」
夫の泉綱昭《いずみつなあき》とは結婚して六年になる。
仲が悪い訳ではない。
それなりに上手くやれていると思う。
喧嘩などの諍いも無ければ、少々まごついたのも先日の出来事くらいだ。
けれどそれが藍華にとって、最も重大な問題であった。
***
「お茶、無いんだけど」
「あ、うん。ごめん」
(それくらい、自分でしてくれないかな)
諦め混じりの言葉を飲み込んで、藍華は席を立ちキッチンへと歩いた。
夫の綱昭はテレビに再び視線を戻している。
彼にとっては妻である藍華が食事の手を止めて用向きをこなすのはごく当たり前のことなのだ。
冷蔵庫から取り出したポットの麦茶を注ぎながら、藍華はふとキッチンにある小窓の外を見た。
住宅街に広がる静かな藍夜の下、一体どれだけの女性が自分と同じことをしているだろうと思いを馳せる。
彼女達は自分のことを自分でしない夫に理不尽を感じてはいないのだろうか。
「はい、麦茶」
「ん」
顔も見ずに発せられた短い返事を、藍華は横目で流し自分の席へと戻った。ひと齧りしたアジフライを再び箸に取りながら、今日も感謝の言葉ひとつ無いのだなと内心嘆息する。
膳を目の前に出した時もそうだ。
だが普段通りである。
これが自分達の今の『日常』なのだ。
まるで残ったアジフライの尾のように渇いて味気ない。
昔なら自らやってくれた事も自然と藍華がやるようになった。
いつの間にか彼にそういう風にもっていかれた気がする。
綱昭は仕事に行って、帰宅して、食事して、入浴して、寝るだけ。
自分の事だけをやっていればいい。自分が決めた時間配分で誰にも左右されずに生きている。
羨ましくて、狡いと思う。とても。
なのに逆らえないのは惚れた弱みでしかなかった。
藍華達は共働きだ。
結婚して六年になるが子供はいない。夫婦二人の気楽な生活である。
だけどそれが少し、いやかなり息苦しい。共働きなのに綱昭は次第に家事をしなくなり、今では藍華が一人で全てを担っている。
綱昭は何も言わない。
いつからだろうか。
彼のこういう狡い部分が透けて見えるようになったのは。
気持ちがまだ深かった頃は自分に甘えてくれているのだと勘違いしていられたのに、今はもう違う。
それが単なる怠惰であると気付いてからは、便利に使われているだけなのだと遅まきながら落胆し失望した。
最近はいつまで彼の事を好きでいられるだろうと藍華は恐怖に駆られる時がある。
「じゃあ俺、先に風呂入るよ」
「うん」
綱昭が振り向きもせずに脱衣所へ入ったのを確かめてから、藍華は食事の後片付けを始めた。テーブルの上にある二人分のトレイと食器を流し台へと運んでいく。
(……前は、やってくれたのにな)
内心で愚痴とも言えない呟きが零れた。
近ごろ綱昭は自分が食べた食器すら片付けなくなった。
喉が渇いたと冷蔵庫からペットボトルを取り出しても、飲んだ後はそのままだ。
テーブルに置き去りにされている。
出しっぱなしの置きっぱなし。
まるで子供を抱えている母親のような気持ちになってしまうが、むしろ子供ならそれを理由に許せたのかもしれない。相手が大の大人だからこそ、こんな風に考えてしまうのだろうか。
自分は彼の妻になったのであって、母親になったわけではないのに、なんて。
藍華は流し台に両手をついて、流れ落ちる蛇口の水をしばし見つめた。
終わりなく排水溝へ向かう水音を聞きながら、視点をぼんやりと朧げにする。
自分は何をしているんだろう、などと考えると気持ちの袋小路に嵌ってしまうから、彼女はわざと考えるのをやめた。
きっと仕事で疲れているんだろう、彼も私も、と有り体な言い訳をつけて頭より手を動かすことに専念した。
水で軽く流した食器を食洗機にセットし、次の日の麦茶を沸かしている間に洗面所で綱昭の着替えを用意する。
これもいつの間にか増えた藍華の役割だ。
最初は好意でしていた事が、義務になったのは何がきっかけだったろうか。まるで昭和の妻のようだ。
綱昭はべつに亭主関白というわけでもないし、高圧的な態度をとることもない。
いつだったか、家事で手が離せず用意しないでいたら後から「今日忘れてたよ」と臆面もなく言われた。藍華は単純に綱昭が楽だろうという好意でしていたのに、なぜか務めのように言われて違和感を感じた。けれどそれを明確に口には出来ずに、今へと至っている。
あの時ちゃんと拒否するべきだったのだろうか。だが着替えの用意くらい大した手間ではないとあの時は思ったのだ。
今はもう、違うけれど。
ああ駄目だ。今日は妙に考えすぎる。
藍華は手にした彼の下着と寝間着を脱衣所の台に置いて、明日の朝食の下準備を始めた。
「あ」
綱昭と交替で入った風呂上り。
ぶお、とドライヤーから吹き出る温風を浴びながら、藍華はふと思い出した。
今日が結婚記念日であったことを。
「忘れてた……」
洗面台にドライヤーを戻し、慌ててキッチンのカレンダーを確認すると、確かに日付は十月二日だった。
自分が忘れていたくらいだ。きっと彼も忘れているのだろう。藍華はそう思いながら振り返り、スウェット姿でソファに横たわりスマホを見ている夫に話しかけた。
「ねえ、今日って……」
「もう寝るから」
なのに綱昭は藍華が話しかけた途端にソファから起き上がってそう言った。
「え、あ、うん……」
タイミングが悪かったかなと思いつつ藍華が返事をすると、綱昭は藍華の顔を見ることなく寝室へと歩いて行ってしまう。
その場に立ち尽くしたまま藍華は逡巡した。確実に、話しかけようとしていたことに気付いていた筈だ。
けれど綱昭はそれを無視した。明らかに。
藍華は顔から笑顔を消した。
結婚してもう六年になるのだ。一々結婚記念日などと騒ぐ自分がおかしいのだろうか。
けれど、ただ「そうだね」と頷いてくれるだけでも良かったのだ。でも夫は自分の話にすら耳を傾けてくれない。
それがどうしようもなく虚しくて。
藍華はいてもたってもいられず、手早く寝支度を済ませると二人の寝室に向かった。まだ綱昭が眠ってしまう前なら少しくらいは話す時間があるかもしれない、と僅かな望みを抱いて。
ただ言葉を交わしたかった。まだ綱昭のことが好きだから。でなければこんな風につれない態度を取られても世話をし続けてなどいられなかった。せめて、少しだけでも彼とまだ心が繋がっていると感じていたかった。
そうしないとすぐにでも離れてしまいそうな気がした。自分も、彼も。
「綱昭……?」
縋るような気持ちでそっとドアを開け、ベッドを見ると背中を向けた夫が横になっていた。寝てしまったか、と思いつつ自分も布団に入った藍華は、綱昭がまだスマホを見ていることに気付いた。白い明かりが、彼の手元から僅かに漏れている。
藍華は綱昭の背中に寄り添い、そっと額をあてがった。
特に記念日めいた事をしなくても、今日くらいは触れ合う事を許して欲しかった。
何しろここ最近はめっきりそういう事も無くなってしまったから。
前回したのがいつかすらもう思い出せない。
それでも藍華は毎日最低限、自分を磨き続けた。スタイルも結婚当初と変わらないように維持し、休日でもだらしない姿を見せないように身だしなみを整え身体の手入れを怠らなかった。
綱昭が求めてくれたなら、いつでも応えられるようにしているのだ。それは今日も同じだった。
セックスレス。そんな言葉は遠いと思っていた新婚時代。
たった一年も経たずにそうなってしまうと、あの頃の自分に予想できただろうか。
「あのね、綱昭」
「やめろよ」
「え?」
今日結婚記念日なんだよ、と言おうとした途端、身じろぎした綱昭が首を回して藍華を見た。向けられたのは眉を顰め瞳を歪ませた迷惑そうな表情で。
「前にも言ったけど、俺は性欲そんな無いんだよ」
「……そうじゃなくて、今日は」
「もういい加減お互いそんな気分になんてなれないだろ。家族なんだから」
「え……」
家族。その言葉に藍華は頭が真っ白になった。
つまり綱昭にとって、自分はもう女ではないということだ。
彼ははあ、と大きく溜息を吐くと、スマホを閉じてベッドから出てしまった。そしてドアの方へと真っ直ぐ歩いて行く。
藍華は慌てて身を起こした。
「俺、今日はリビングで寝るよ」
背中越しにそう告げる夫を、藍華はベッドから半身を起こした状態で見つめていた。
「なら、私が……」
「いいよ。そこまでさせるのは悪いから。だけど明日からはこういうのはやめてくれ。仕事で疲れてるんだから。藍華だって明日あるだろ。早く寝ろよ」
言うだけ言って、綱昭は部屋から出て行った。
閉まったドアの音が空間に虚しく響く。明かりを消した暗がりの中、藍華はベッドの上で呆然としていた。
結婚記念日だ。一年に一度しかない日なのだ。
けれど彼はそれを忘れていて、かつ藍華が触れただけで迷惑だと言わんばかりだった。極めつけは、家族、だと。
「は……」
藍華の口から息が漏れた。
家族。なんて便利な言葉だろうか。家族だから性欲がわかないのだと、それを免罪符のように使われて、傷つかない女がどこにいると言うのだろう。
今日が何の日か、自分だって忘れていた。でも仕方ないじゃないか。忘れてしまうくらい、もうぎりぎりなのだ。
藍華の中にある綱昭への想いが、忘れさせるところにまできてしまっているのだから。
何年も前、彼に抱かれた日の事を覚えている。記憶にあるのは心地良さより痛みだった。
おざなりな前戯では身体は準備など出来ず、なのに彼は性急に藍華の内側に入り込み、一人で勝手に果てていた。
藍華があの時なんと言ったのか。
ありがとう、だ。
夫婦の触れ合いになぜ感謝の言葉など言わなければいけないのだろうと思いながら、それでも抱いてくれたのだからとそう告げた。
本当は心も身体も出血していたのに。
擦り切れたのは身体も心も両方だった。
忘れていたんじゃない、忘れていたかったのだ。
あと何度この日を迎えられるかわからなかったから。
だから今日だけはせめて、触れて欲しかった。心よりも身体にこの人が自分の愛する人で、こういう事をする人なのだと刻み付けて欲しかった。そうしたら、まだ歯止めになってくれたのに。
恋情があっても愛情があっても、恋愛が抜ければもうただの情しか残らないというのに。それは後はすり減るだけのものなのに。
「痛……」
藍華はベッドの上で胸を押さえて蹲った。
「いたい……」
痛い。痛い。痛い。
胸が、心臓が痛い。
背中から胸が冷たくて、そこから大きな氷の針が脆い部分を鋭く突いてくるように心臓が痛かった。
呼吸ができず苦しさのあまり藍華は胸元を手で押さえて、は、と短い息を吐く。
全身が寒かった。まるで身体中の血が引いたような凍え方だった。
痛くて寒い。これに似た感覚は近頃よく感じていたが、今日はとみに強い。それだけ心が傷ついたからだろう。
蹲る藍華の頬に涙が一筋、流れ落ちていく。
夫と『できない』のなら、妻は誰と『すれば』いいのだろうか。
ふとそんなことを思ってしまう。
最近、自分の心の不調が以前に増して激しくなっている。
仕事終わりに夜空を見上げることが増えた。
綱昭を思う時、笑顔ではなく迷惑そうな表情が思い浮かぶ時が増えた。
いつから自分は家に「帰りたい」ではなく「帰らなければいけない」と考えるようになったのだろう。
藍華は思う。
結婚とは、互いに互いの時間を奪うものだと。
それは心があるからこそ許される行為だ。
けれどこんなものが自分達『夫婦のかたち』であるならば、なんて寂しくて冷たいのだろうと、藍華はその夜、ひとりで泣いた。
三話へ続く