見出し画像

幻想短編小説「レディ・グレイの肖像」中編

 ウィルを庭に面した客間へと通した私は、彼に祖母の晩年の写真を収めたアルバムを渡してから台所でお茶の用意をした。

 煎れたのは祖母が好んで飲んでいた煎茶だ。

 華道の師範であった彼女は茶にも造詣が深く、わざわざ京都から取り寄せたものを飲んでいた。

 祖母が亡くなって以降は私が好きで頼んでおり、ここに来る時に実家から持ってきていた。

「墨子サンは、シアワセ、だったのデスね……」

 客間に戻りウィルに茶を出すと、すん、と鼻を啜る音が聞こえた。
 おや、と思い目をやれば、薄緑の瞳がふるふると潤んでいる。

 どうやらウィルは感情表現が素直な男性らしい。

 彼の手元のアルバムでは、割烹着姿の祖母が台所に立ち笑みを浮かべている。
 憂いのひとかけらも無い、良い表情だ。

「その写真、私が撮ったんですよ」

「おお、そうなのデスね。墨子サン、素敵なスマイルです」

 一枚一枚の写真を噛み締めるように眺めるウィルの表情を見つつ、私は横目で外が薄暗くなり始めているのを確認した。

 このままいけば、ウィルを泊まらせることになるかもしれない。
 幸い来客用の布団は昨日干したばかりだ。部屋の掃除もおおまかだが終わっている。食材も、数日滞在するつもりだったため、十分に余裕があった。初老の男性一人泊めたところで支障はないだろう。

 ウィルはどうするつもりかわからないが。

 外見年齢的に一人だけで来たとは考えにくい。迎えが来るかどうか後ほど確認しなくては。

「……祖母とはどうやってお知り合いに?」

 一先ず私はウィルと祖母の関係性について確かめることにした。

 不思議なことにウィルに対して不信感は全く感じていない。

 それは彼の纏う穏やかな空気にあるのだろうか。
 ウィルはどこか晩年の祖母と似ているのだ。

「ワタシの父が昔、日本の骨董《アンティーク》を集めていたのデス。当時父と取引のあった貿易商が貴方の祖父、鷹匠秋吉《たかじょうあきよし》氏でした」

「祖父が骨董を……」

 アルバムから顔を上げたウィルが説明してくれた。

 確かに、祖父は昔貿易会社に勤めていたと聞き及んでいる。
 取り扱い商品は当時の欧米人気に合わせた流行り物だったらしいが、骨董にも関わっていたとは初耳である。

「鷹匠氏は何度もワタシの家に来て、色々な品を見せてくれましシタ。掛け軸や陶磁器、茶道具など。当時十代だったワタシにとって、意匠を凝らした日本の美術品は幻想的で、強く心惹かれたものデス」

 日本に行きたいと何度も父親に頼み込み、やっと連れてきて貰ったのがーーー彼の父にとっては取引相手である、祖父鷹匠秋吉の結婚式、だったそうだ。

「その日ハジメテ、ワタシは墨子さんと出会いまシターーー」

 ウィルの緑の瞳が私に向く。

 視線は遥か遠い。

 彼の目にはきっと、若かりし頃の祖母が見えているのだろう。

 そうして、静かな秋の夜に、二人の男女の出会いと別れの物語が始まりを告げた。
 
***

 ーーー喉が渇いた。

 ふと目が覚めた時、障子には薄ぼんやりと中秋の月が浮かんでいた。
 生まれ育った英国の月とは違い、日本の月は空との境目がくっきりと際立っているように思える。
 
 しかしそう見えるのは、ずっと訪れることを願っていた自分の夢が叶った喜びゆえなのかもしれない。

『ウィリアムは本当に日本が好きだな』

 しつこく日本行きをせがんだ私に根負けした父は、呆れたようにそう言った。

 けれどその表情には、自らも愛して止まないこの国に息子もまた魅入られたのかと、小さくない喜びも滲んでいたように見えた。

 十三歳を迎えた年。
 私は念願叶って日本へと渡った。

 日本の人々は四季折々の空模様に名を付け、愛で、親しむ。

 そして身の回りにあるもの全てに神が宿ると信じ、伝統の中に森や山、動植物など自然を取り入れ受け入れ暮らしている。

 英国にもその感覚はあるが、この国の感性はまた独特だ。そして、驚くほどに繊細で鮮明だと感じる。

 彼等の持つ独自の感受性や表現方法に私は憧れ、また愛している。

 それは人の手仕事とは思えぬほど微細な描写で華やかに咲く大輪の花の着物であったり、繊細かと思えばずっしりと手に馴染む茶碗の感触であったり、今にも羽ばたき飛んでいきそうな掛け軸の鳥達であったりと、言葉に尽くせぬほど多い。

 和室の客間に用意されていた水差しで喉を潤した私は、きぃ、ぎぃ、と鳴く鶯張りの廊下を厠へ向かって歩きながら、庭で風にそよぐすすきの姿に目を細めた。

 確か日本では、この光景を幽霊、つまりゴーストと見違え恐れた人の言葉があったはずだ。

 『幽霊の、正体見たり枯れ尾花』だったろうか。

 明日の結婚式に招待してくれた父の取引相手であるMr.鷹匠が私にそう教えてくれた。

 けれども、私には白く丸い月が浮かぶ藍色の夜空の下、首をゆったりと振るすすきは幻想的にしか思えない。

 それは今夜が満月で、夜にしても明るいからだろうか。

 かつての日本には街灯などなく、提灯のあかりだけで夜道を歩いていたと聞く。

 であれば、揺れるすすきの影も得体の知れない恐ろしいものに見えたのかもしれない。

 何しろここは、万物に神宿りし国なのだから。

 そんな風に思いながら、教えてもらった厠への道を歩く。

 りりり、と鈴虫の歌う声が聞こえる。
 風も、虫の音までもすべてが日本という国は美しい。

 特にこの日本家屋に至っては、重厚な瓦屋根も、い草の香り芳しい畳も、頭上を走る艶やかな梁すら何もかもが優美だ。

 欄間一つとっても芸術品である。
 美がそこかしこにあるというのに、華美ではなくささやかであることも好ましい。
 
 そして邸宅の広さから察するに、鷹匠氏はこの地方でも有数の名家のようだ。
 中心地からはやや離れているものの、家屋は大きく、庭園は広大で、樹齢古い松の木や赤白模様が華々しい錦鯉が悠々と泳ぐ池には風情ある鹿威しが澄んだ打音を響かせている。

 ーーーおや?
 
 そんな風に意気揚々と家屋の風情を楽しんでいた私は、すぐ先にある曲がり角で何か白い影が過ぎ去ったことに瞠目した。

「……?」

 見えたのは、一瞬。
 夜は深く、辺りに人の気配は無い。

 もしや私のように喉の渇きを覚えた他の客人が、厠へと急いでいたのだろうか、と考える。

 それとも、かつて誰かが見違えたように、すすきを人影と思い違いをしたか。

 いや違う。廊下にすすきなど生えているはずがない。

 であればーーー

 好奇心半分、恐さも少しの気分で私は白い影が消えた方向に足を勧めた。
 鷹匠氏の邸宅は来客が滞在する用の棟と、家人が過ごす棟とで東西に分かれている。

 白影が消えた方角は家人がいる東棟だ。

 訪問時、女中からやんわりと東棟への立ち入りには一声かけるよう言われた。
 が、私は欲に負けて棟に繋がる渡り廊下を進んでいった。

 思えばこの時が、ある種私の人生の岐路だったのだろう。

「……どなた?」

 家人が暮らす東棟へと入って、二部屋ほど過ぎた場所で、私はその声にぴたりと足を止めた。
 思わず強張った肩は、咎めを恐れたのではなく、純粋に目の前の光景に恐怖したからだ。

 月光りに仄青く染まった渡り廊下の上に、白い人がいた。

 たっぷりとした黒く波打つ髪を持った、たおやかな女性だ。

 白い着物と白い肌が、夜闇にほんのりと淡く光っているように見える。

 私は一瞬、父の書斎に飾られた『幽霊画』からそのまま抜け出てきた、人ならざるものではないかと思った。

 それ位、女性は存在感が薄く、今にも消えてしまいそうな微かな気配しか感じなかったからだ。まるで、見えているのに其処に居ないかのような。 

「わ、わたしは、ウィリアム・コナーと、言いマス」

 意を決して名乗りを上げる。他の部屋にいるだろう家人を起こしてしまうかもしれないので、声は抑えていたが。

 すると女性は大きく、猫の目に似た黒い瞳を一度そっと閉じると、合点がいったようにふ、と息を吐いた。

「ああ、あの人のお仕事相手の方の……貴方はもしや、コナーさんのご子息?」

「ハイ」

「まだ少年なのに。日本語がお上手ね」

 女性は父を知っているようで、やんわりと微笑みながら滔々と『世間話』を諳んじてみせた。そう感じたのは、彼女の言葉には何の感情も含まれていなかったせいだろう。

 美しい面に生気は無く、あるのは深い憂いだけ。
 もしも目の前の庭先が切り立つ崖であったなら、すぐさま身を投じてしまいそうな危うさが、彼女からは覗いていた。

「アノ、貴女は……?」

 こんな夜更けに女性に名を尋ねることは無礼だと思ったが、堪えきれず口を突いて出た。

 他の家人が起きてくる様子はない。
 今この場所には、私と彼女だけが存在している。

「わたしは、墨子……。明日には鷹匠墨子になるモノですわ」

「それデハ、貴女が」

「ええ」

 花嫁となる女性なのか、そう私が続けようとしたことに気付いたのか、彼女は遮るように返答を告げた。
 そして、ふと顎を上げ、頭上へと視線を投げる。
 私も彼女につられて目をやれば、煌々と輝く金月が空高く上っていた。

「月を……」

「月?」

「ええ。月を、見ていました。あなた、「かぐや姫」というお話をご存じ?」

 月を見上げたまま彼女が私に尋ねる。
 黒い瞳の焦点は合っていない。

 心ここにあらず、といった問いかけにどうしたものかと思いながらも、私は父からかつて聞いた話を思い出し彼女に答えた。

「少しなら。月に帰るプリンセスの物語ですよね」

「ええ。並み居る求婚者をすべて袖にして……故郷へと帰る女性のお話です」

 私の返答に何の感動も示さない彼女はただぼんやりと月を見つめたまま続けた。
 その白い横顔は月光に淡く光り輝いている。

 彼女はまるでその物語に登場するかぐや姫のようだ。
 
 そう思えるほどに、彼女の存在に私は現実味を感じなかった。

 黒く長い豊かな髪を背に垂らし、月から降り注ぐ光を全身に浴びて、白い着物は発光したように輝いている。

 そんなだから、私はつい、口にしてしまったのだ。

 あの一言を。

「美しい着物ですね。まるで月の糸を編んだようデス。貴女にとても良く似合っている」

 そう言った瞬間、たった今まで静止していた彼女の首がぐるりと周りこちらを向いた。

 ーーーえ?

 その動きはまるで人形のように無機質で、反して表情は恐ろしいほど厳しかった。まるで切り刻んだように深い溝を眉間に刻み、黒々とした強い怒気をぶわりと全身から立ち上らせている。

「似合って、いる、ですって?」

 こてり。
 彼女が首を傾げる。小さな動作が、とてつもなく空虚に見えた。

「え、ええ……あの、ナニか」

 駄目だったか、と恐る恐る問おうとした私に、彼女は荒々しい足取りで素早く目の前に来ると、ぐっと白い面を突き出した。
 彼女の大きな猫のような目がぎょろりと私を凝視している。
 驚き固まる私の腕を、唐突に彼女が掴んだ。
 同時に強く引っ張られ、私の身体が傾いていく。

「えっ!?」

 突然のことに目を丸くした私は、虚を突かれたこともあってされるがままに彼女に引き摺られていった。

 連れて行かれたのはすぐそこにあった一室。

 彼女は障子戸をすぱんと開け放つと、私を無理矢理部屋の中へと押し込んだ。

 室内では畳の上に一人分の布団が敷かれ、掛け布団が捲れ上がっている。
 きっと彼女が寝ていたものだろう。

 部屋の片隅には桐箪笥があり、傍らにあるのは低い座卓だ。
 行灯の明かりに照らされた卓上には墨を溶いた硯と、筆、そして白い半紙が置いてある。書道具の一式だ。
 手紙でも書いていたのだろうか。

 それらが書道具だと一目でわかったのは、父が以前鷹匠氏から買い受けていたからにほかならない。
  
「似合うわけがないわ……! こんな、こんなものっ……!」

 そう強く吐き捨てた彼女が座卓の上にあった硯を掴んだ。
 白い華奢な手が黒光りする石の塊を高く掲げる。

 次の瞬間、私の思考が止まった。

 びしゃり。

 音がした時にはもう、白い着物は墨に染まっていた。

「なっーーー」

 信じられないことに、彼女は硯をひっくり返し、中で揺れていた墨液を頭から被ってしまったのだ。

 私は目の前で起こったことに対する驚愕でただ呆然としてしまう。

「これは死に装束よ! 私にとっては……! こんなもの、こんなもの塗り潰してしまえば良いのよ!! 墨で真っ黒になれば、そうすれば、こんな結婚……!」

 狂ったように叫びながら、彼女は硯を振り回し自分にも辺り一面にも墨を振りまいた。
 びしゃ、と白い障子に墨が散る。まるで血飛沫のようだ。

 もちろん、数え切れない雫は私にも満遍なく振り注いだ。

 墨が飛び散った白無垢は、まるで血飛沫を纏ったかのようだった。

「ーーーねえ、日本の貧しい娘が、どんな結婚をするかご存じ?」

 ごとり、と。

 中身を失くした硯を畳みの上に放り投げた彼女は天井を見上げ、私に聞いた。
 声音には嘲るような響きがあった。
 墨で汚れた細い肩は笑っているのか小刻みに揺れている。

 だが私は答えられない。

 両目はただ飛び散った墨で汚れた白い着物に向いていて、耳は彼女が叫んだ言葉を反芻していた。

 死に装束。

 彼女は己が纏う着物をそう言った。
 
 のろのろと動き始めた思考のなかで、漸く気付く。

 日本では、死した者に白い衣を着せるのだと。

 それともうひとつ。

 花嫁が纏う衣もまた、白無垢ーーー白い衣であることを。

 日本では、死人と花嫁が同じ色を纏うのだ。

「いいえ、国なんて関係ないわ。よくある話のはずよ。お金で買われる女なんてのはね……!」

 ばっと彼女が振り向いて、真っ黒な髪を振り乱して私に怒鳴る。
 大きな瞳は血走り、険しく歪んだ表情はまるで鬼女のようだった。

「貴方だって同罪よ。貴方の父親が払った金銭で、私はこの家に買われた。自分が潔白なんて言わせないわ。片棒を担いでいるくせに!! 貴方たちのせいで、私は、私はっ……!」

 襲いかかるように迫ってきた彼女に両腕を掴まれた。
 細い指のどこからこれほど強い力が出ているのかと不思議に思うほど、肩に彼女の爪が深く食い込み私は痛みに思わず喘ぐ。

「い、痛っ……! ゴメ、ごめん、なさ……っ」

 私はわけもわからず咄嗟に謝った。否、本当は彼女が言っている意味をほとんど理解していた。十三なのだ。世の中の不条理にも気付き、自分がどれだけ彼女に対して無神経な言葉を吐いたのか、わかってしまったから出た言葉だった。

「あーーー?」

 抵抗も出来ずただ一言謝罪を告げた私の顔を見た彼女の表情が、さっと変わった。
 先程までの狂気に満ちた面ではなく、正気を取り戻した美しい女性のものに変化する。
 私はその移り変わりを、深い後悔に襲われながら見つめていた。
 目の端から流れていく熱いものはきっと涙なのだろう。
 私は十三にもなって我慢できずに泣いていた。
 涙など、彼女への謝罪には到底ならないというのに。

 だが彼女は、墨子はなぜか愕然とした表情をしたあと、つう、と大粒の涙を両目から零した。私の肩はもう痛くなく、そっと細い白魚のような手が離れていく。

「いいえ……いいえごめんなさい……貴方のせいじゃないのに……違うのに、私は、何てことを……!」

 ずるずると、墨子の身体が頽れていく。
 やがて畳の上にぺたりとへたり込んだ彼女は両手で顔を覆い、さめざめと泣き始めた。

「好きな、人がいたの……いつか、いつか想いを告げられたらって、思ってた。思ってたのに……あぁ、うあぁぁっ……!」

 悲痛を吐露しながら彼女は泣いていた。

 墨に汚れた彼女の手も、白かったはずの衣装も、全てが今や濃い影に染まっている。

 外で燦然と輝く月から身を隠すように。
 すべてが灰色の世界で、たった一人彼女は己の悲運を嘆いていた。
 
 ーーーその後。
 騒ぎを聞きつけた家人達によって彼女は何処かへと連れて行かれた。

 呆然としていた私は慌てて迎えに来た父によって叱られ、彼女、墨子と出会った経緯についての説明を強いられた。

 本来ならば式直前の花嫁の部屋にいたことを糾弾されるところだったが、父が鷹匠氏の上客であったことと、異国人であるということが幸いした。

 結果私はお咎め無しとなり、翌日、鷹匠氏の式に参列する運びとなったのだ。

いいなと思ったら応援しよう!