背徳純愛小説『藍に堕ちて』第二十話「強引なガイド役」
「じゃあ俺は着替えてくるから。悪いがここで待っててくれ」
裕が足早に作業場を出るのを見送ったあと、蒅が言った。
「あ、あの」
「作業場の中は好きに見ててくれてかまわない」
彼はそれだけ告げると藍華に背を向け作業場の外へと出ていく。
恐らく隣接している建物の方へ行くのだろう。
迎えに来るときは作務衣だったのに、案内となれば着替えるらしい。
もしや気を遣ってくれているのだろうか。だとしたら重ねて申し訳ないなと思いながら藍華が待っていると、数分もしない内に蒅が作業場へと戻って来た。
(う、わ……)
途端、藍華の目が自然と開いていく。
「んじゃ、行くか。どこに行きたいとか希望はあるか?」
蒅の言葉がどこか遠くに聞こえていた。
聴覚より、視覚にすべての神経が持っていかれている。
蒅という人間は和と洋であれば和の気配が色濃く、それは彼の生業自身がそうさせているのだろう。
けれど、今の彼は先程とは違って作務衣からラフな格好に様変わりしていた。
黒い長袖シャツに着替えたおかげで男らしい広い肩幅が強調され、捲り上げた袖からは見事に引き締まった腕の筋肉が惜しげもなく晒されている。
また太めの濃灰色デニムはゆったりしている癖に彼の恐ろしく長い脚をより一層際立たせていて、黒く艶のある彼にダークトーンの配色がそれこそ嫌味なほど似合っていた。
まるで昔のフィルムに出てくる俳優さながらの様子に、藍華は思わず呆気に取られた。
作務衣姿も正直なところ十分魅力的ではあったが、身体のラインがそこまではっきりしないのもあり肉体的な主張はここまであからさまではなかった。だからこそ、余計にギャップが強烈なのだろう。
(これは、反則、じゃない……?)
静かで硬質で、他を寄せ付けない空気を纏う蒅だが、シンプルな洋装姿は最早異彩を放っている。
良い歳をして目のやり場に困ってしまった藍華はふるりと背筋が戦慄く感覚にたまらず顔を俯けた。
「……藍華、どうした?」
返事をしない藍華を疑問に思ったのだろう蒅に声をかけられるが、藍華はそれどころではなく、脳内でぐるぐると自問自答していた。
(これは、やっぱり駄目な気がする……駄目よ、この人とは一緒にいられない)
自分の頬に熱が集まるのを感じるのと同時に、心の底が恐怖で凍りつく。
藍華は既婚者なのだ。今はまだ。
なのに、こんな感覚になってしまうのはまずい。
「彼」と同じにはなりたくないのだ。それだけは嫌だ。「綱昭」と同じになんて、死んでもなりたくない。
(私は、そんな女には、ならない)
心の内で自らに言い聞かせ、叱咤する。
そもそもいくら裕の知人といえど、男性とふたりきりというのは世間体にもよろしくない。
最初から断るべきだったのだ。
そう決めた藍華は強めに両手を握り込み、顔を上向けた。
「あの」
「何だ」
「やっぱり案内はしなくて結構です。近場だけなら自分で回れますので」
「……へえ?」
断りを入れる藍華に蒅はその場で腕を組み、片眉を上げて不審げな顔をする。言葉少な態度はやけに挑戦的だ。
だが厚意を拒絶するのはこちらなのだからと、藍華はぐっと堪えて頭を下げた。
「引き受けてくださったのにすみません……。それでは、私はこれで」
言うべきことだけ言って、踵を返そうとした。蔵色藍染處はそこまで中心地から離れていないため、しばらく歩けばバス停もあるだろうと徒歩で行くつもりだったのだ。車は裕が乗って行ったのでそうしようと。
だが、振り向きざまに手首をがしりと掴まれ、固まった。
「な……」
「ガイドだと思えばいいだろ」
咄嗟に振り向いた瞬間、鋭い瞳に射抜かれる。
藍華の目線より高い位置から見下ろすその目はまるで「逃さない」と告げているようだった。
「男と二人ってのが気になってるなら、ガイドだと思えばいい」
「でも」
「ま、あんたの顔見てる限りじゃあ、そんな操を立てるべき男には思えんがな」
「なに、言って」
嘲笑するように、否あきらかに嘲る口ぶりに藍華の身体が凍りつく。それを見越したように、蒅は、目の前の男は掴んだ手首をぐいと引き寄せ藍華の腰を抱き留めた。
「ちょっと!?」
唐突な至近距離に仰天した藍華が驚きと怒りの声を上げる。先程嗅いだ独特な藍液の香りと彼自身の体臭が鼻を掠め、藍華の神経がぶるり震えた。
蒅は彼女の背が仰け反るほど隙間なく身体を密着させ、至近距離で藍華の顔を見下ろしている。
ある意味痴漢行為にも等しいというのに、強烈な視線が藍華の声を封じていた。
「俺が指輪を勝手に外した時、あんたは怒りもしなかった。それが答えだろ」
こちらを真っ直ぐ貫く黒い瞳に、藍華の心がたやすく硬直した。
やはり見抜かれていたのだ。
あの瞬間に、藍華の心のすべてを。
他人に、それも男性に結婚指輪を外されたというのに、怒るどころか安堵すらしていたことを。
だが、たとえそうでも。
(貴方に言われる覚えはないわ……!)
「っ……それが貴方に、何の関係があるって言うの」
藍華は心を見透かされた悔しさに唇を噛み締めた。そして、そのまま湧き上がった苛立ちを蒅にぶつける。
「離して」
「嫌だ」
(この人……!)
掴まれた手首にぐっと力を込める。びくともしない。それが余計に、腹立たしい。
右手は拘束されていて、腰には蒅の左手がぴたりと添っている。まるで捕らえられているようだ。
きっと今の自分の顔は怒りに燃えているだろうと藍華は思った。
指輪を外されても反応しなかった怒りが、今さら顔を出すなど皮肉だ。
今の藍華は自分のプライドのために怒っている。
勝手に心を暴いてくる蒅の無遠慮さに憤っているのだ。
「そう噛みつくな。俺はただ、忘れてろって言ってんだよ。後輩に誘われて旅行だなんて、気分を変えたかったのもあるんだろう。だけどあの時のあんたの顔は本物だった。本心から染めるのを楽しんでた。だから、今だけはそういう面倒なもん全部忘れて過ごしてみろよ。ただ楽しむだけでいいんだ。楽にしろ」
だと言うのに、見上げる先の黒い瞳は鋭さを和らげ刺々しい藍華の心を労るように優しく言葉を紡いでいく。
「ら、楽にって……そんな簡単な話じゃ」
諭すような台詞に気勢を削がれた藍華は大いに戸惑った。
確かに、藍染をしている時は心の底から楽しかったし、嬉しかった。ただ楽しむことができたなら、本当にそうできるなら、藍華だってそうしたい。けれど、自分は真っ当な常識を持った大人であるべきで、そして既婚者なのだ。
「簡単だろ。今ここに、俺の前にいるあんたはただの藍華だ。他は関係ない」
「そんな強引な理屈……っ」
「俺は強引なんだよ。あんたには、そうしたくなる」
「意味わからないわよっ」
「俺もだ」
売り言葉に買い言葉で藍華達は互いに睨み合った。たとえ彼の言葉が真実だったとしても、そうした方が楽になれるとわかっていても、だからといって出会って間もない人間のプライベーㇳに無遠慮に立ち入るのは気に入らない。
「……傷のこと、聞くつもりは無いって言ったわ」
藍華は先ほど警告したはずだ。こちらからもしない代わりに、藍華にも立ち入ってくれるなと。
「言ったな。だが俺から立ち入らないとは言ってない」
悪びれもせずに蒅が言う。彼の顔はどこか楽しんですらいるように見える。不躾かと思えば労るような優しさを見せ、そうかと思えば人を面白がっている。藍華は混乱した。
密着した身体が、今にもひっつきそうな胸元が、どくどくとすべて脈打っているかのように思える。
「貴方、一体どういうつもりなの」
ほとんど顔を突き合わせた状態で、親の敵でも見るように男を睨み据えて藍華は聞いた。
この男がわからない。
蒅は、藍華がこれまで出会った男性達とはまるで違う。
まったく初めて目にするタイプの人間だ。
「蒅だよ」
「え?」
彼の意図について尋ねたはずなのに、なぜか名前を宣言されて藍華は面食らった。
目をぱちりと瞬かせる藍華を、蒅は僅かに口角を上げて見ている。
「すくも。俺の名前」
「蒅……」
思わず復唱してしまった藍華の声を聞いた瞬間、蒅の表情が綻んだ。それは嬉しそうに、楽しげに、鋭いはずの瞳が柔らかく細まるのを、藍華は至近距離で呆然と見つめていた。
「そ。いいな、あんたに呼んでもらうのは気に入った」
「なに馬鹿なこと」
おかしなことを言う男に藍華は呆れた。ただ名前を呼んだだけなのに、なぜこうも嬉しげにするのか。
それよりも、 一体いつになったら離してくれるのか。
そう思っていると、蒅がくっと口端を上げた。意地悪そうな表情に、藍華の気がきゅっと引き締まる。
「ああ、あと安心したいだろうから言っておくが、裕が知ってんだから手ぇ出したりはしねえよ。今日はな」
「は?」
突然何を言い出すのかと藍華がぎょっとするのにも構わず、蒅は藍華の身体を解放するとそのまま優しく手を引いて外へと促した。
密着していた身体が離れたせいか、途端体温が下がった気になる。
「いいから、もう行くぞ」
「え、あっ、ちょっと!」
強引なガイド役の大きく節張った手に急かされて、藍華は怒る間もなくそのまま蒅に連れて行かれた。
→第二十一話に続く