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黒い猫と片想い

「……あ、今日もいる」

 空が白み始めた頃。

 日課通りに出窓を開けた私は、まだ涼しい朝の空気を吸い込んだ拍子に『彼』に気づいた。

「毎日毎日、同じ場所、同じ時間に全くご苦労な事だぁね」

 『彼』の黒い後ろ頭を階上から眺めつつ、うむと感心した。
 恐らく、私の部屋から彼の立つ場所までは十数メートルはあるだろうか。

 マンションの四階から見える朝の景色に一点の黒が目立つ。
 凛とした立ち姿は、さながら絵本に出てくる騎士の如き気高さだ。

 ただ一つ、難点は彼の隣にあるのが、鬣(たてがみ)美しい白馬ではなく、ぼけた灰色の電柱だというところだろうか。

「さてさて、私も早く支度するかなっと」

 もう少し彼の姿を眺めていたい気持ちはあれど、何しろこちらはしがない会社員。社会の歯車から外れては、それこそ明日のおまんまにさえ困ってしまう。

「……好きな相手をずっと眺めて居られるなんて、君は幸せもんだね」

 灰色の電柱横、黒い彼へ聞こえないと思いつつもそう声をかけ支度を始めた。
 
 彼の耳が少しだけ動いた気がしたのは、恐らく私の目の錯覚だったのだろう。

◆◇◆

「まーいにちまーいにち、ぼくらは……♪……」

 まさに鉄板の上とも言える熱いアスファルトの上を歩きながら、愚痴なんだか鼻歌なんだかわからないものを口ずさむ。音は耳タコで覚えているが、歌詞はあやふやなので後半なんてほぼハミングだ。
 
 夏真っ盛りの八月ともなれば、夕方と言えど地面は昼間に蓄えた熱のせいでかなり熱い。
 ついつい、こんな歌を自分に置き換え歌ってしまうのも無理はないだろう。

 まだ残業した方が、帰り道は涼しいけど。それはそれで自分の時間無くなるし。
 人生、上手くいかないもんよねー。

 なんて、コツコツとヒールの音を響かせながら、とりとめのない事を考える。

 ーーーそんな私の足元を、突如黒い影が横切った。

「っぬお?」

 妙齢の女子が上げる声にしては、可愛げが無いが許して欲しい。こちとらアラサーの独身OLである。
 
 乙女ゴコロなんてものは、小学生の折、一つ上の兄にリコーダーを借りにこられた事で消えてしまった。

『え……? 里香ちゃんお兄ちゃんにリコーダー借すの……?』という友達女子のどん引いた顔は生涯忘れまい。

「って回想してる場合じゃないっ。ちょっと君、何私を横切ってくれちゃってんのかなー? ジンクスって知ってる? 私は君のこと大好きだけど、世間一般では”黒猫に横切られると不吉”って言うんだよ?」

 まあそれも、人間側が勝手に考えたもので、彼自身に罪は無いのだけど。

 そう言葉とは反対の事を思いながら、件の犯人の脇を掴んで抱え上げれば、予想外にも無抵抗で身を委ねてくれた。

 首輪もしていないし、毛艶や肉付きもあまりよろしく無いことから、野良の子だとは思うが、意外と人慣れしているらしい。
 まんまる大きな黄色い瞳と視線がぶつかる。

「にゃあん」

「あら、今日は愛想いいのねキミ。いつも私の事なんて知らんぷりなのに」

 口端上げつつ言えば、彼の三角耳がぱたりと折れた。

 「にゃー……」

「あっはっはっ。なぁにそのカオ。それはすまんかったーって言ってるみたいじゃん。いいよいいよ。だってキミ『彼女』を見に来てるんでしょ?」

 にやりと笑いながら、私の部屋から真向かいにあるマンションの一室を見上げれば、黒い彼は鼻をひくひくさせ、再び「にゃあん」と甘えた声を上げた。そして喉奥をゴロゴロ慣らしながら、私と同じ場所に水晶の綺麗な瞳を向ける。

「かっわいいもんね彼女。真っ白で長毛で。まさにお嬢様って感じ」

 私の住むマンションと同じ造りの建物で、これまた同じく四階の出窓には、上品な純白の猫さんがつんと澄ました顔でこちらを見下ろしていた。出窓には恐らく彼女専用であろうクッションが置いてあり、大事にされているのが窺える。

 相変わらず綺麗に手入れされてるなぁ……羨ましい。

 などと、そんな事を思う。
 猫に嫉妬したところで、私の願いが叶うはずもないと言うのに。

「手の届かない場所の相手を想う……か。君も私も、報われないねー……」

「にゃーん……」

 自分勝手に彼の境遇と自分の境遇を重ねて言えば、不思議と同意するみたいな返事が返ってきて笑う。

「彼女に会いに来てるのに、邪魔しちゃってごめんね」

 そう言いつつ彼を下そうとしたところで、向かいにあるマンションのエントランスから一人の男性が出てきて、ぴたりと動きを止めた。
 後頭部へと流した黒い髪に、スーツと同じシルバーグレーの細眼鏡。硝子越しの鋭い瞳で、私に気が付いた彼は―――

「あれ、笹野(ささの)じゃないか。ってどうしたんだその黒猫……飼うのか?お前のとこも、俺の所と同じでペットOKだったよな」

「藤谷(ふじや)先輩……! お疲れ様ですっ。この子は、その、えっと」

 わちゃわちゃと慌てながら返事をするも、イマイチ上手に受け答えが出来ない。それもその筈、だって今の私は、顔は真っ赤で思考は混乱、先ほどまでの落ち着きなんて明後日に吹っ飛んでしまっているからだ。

 藤谷佳樹(ふじやよしき)先輩。
 私より三つ上の、今年二十九歳になる職場の上司兼先輩である。
 ちなみに、四階の出窓に居る純白のお嬢さんの飼い主だったりする。

 入社してからずっと四年間、私が……片想いしてる人。

 我ながら、長い事想い続けているなと思う。だけど、今までの恋とこの恋は、何かが違っていたのだ。

 諦めようとして、諦められるものじゃない。それが本当の恋なのだと知ったのは、彼に出会ってからだった。

「笹野どうした?顔赤いけど、体調悪いのか?」

「い、いいえそんな事はっ。全く無いです、全く……!」

「そっか。ならいいけど。……っと、俺忘れ物取りに来てて、また会社戻らないといけないんだよ。時間あったら、笹野と飯行きたかったんだけどな。悪い」

 そう片手でごめんのポーズを取りながら、藤谷先輩は申し訳なさそうにその場を後にした。

 ……すれ違いざまに、私の頭をぽんと撫でて。

 私はと言えば、藤谷先輩の背中に「が、頑張って下さいっ」と声をかけるのが精一杯だった。後ろ手に手を振りながら走っていく先輩のスーツの背中が、無性に格好良く見えた。

「~~~っ! 見た!? 今の! 頭! 頭撫でてくれた! 先輩がっ!」

「にゃー」

 先輩が去った後、見悶える私へ「良かったね」と言わんばかりに、黒猫の彼が声を上げてくれる。私はそれに満面の笑みで頷きながら、ずっと抱えていた彼を地面に下ろす。

 私が入社した当時、藤谷先輩には付き合っている女性がいた。

 しかし私自身、あまり積極性が無いというのもあったし、お相手のいる男性に対しアクションを起こすタイプでも無かったので、好意を持ちつつもずっと離れた位置から見つめるだけの生活を送っていた。

 この、一年前までは。

 藤谷先輩が付き合っていた女性と別れたのが、去年の夏。

 ちょうど今と同じくらいの季節だった。

 それを教えてくれたのは本人で、会社の後輩にあたる私は一応社内では先輩と普通に話す間柄になれていた。
 あれから一年、最近は先輩とご飯を一緒にできるまでになった。マンションが向かいなのは流石に偶々だったけれど、入社する時にここに決めた自分を未だに褒めてやりたいと思う。

「笹野と飯行きたかった……だって。嬉し過ぎて、死にそう」

 両手で顔を覆いながら、奇声を上げたい衝動に駆られるが、なんとか我慢する。足元では、黒い彼が私の膝にすりすりと頭を擦りつけてくれていた。

「こらこら、私に構ってないで、想い人の事ちゃんと見てないと。よそ見してると、フラれちゃうぞ」

「にゃにゃーん」

 自分の事を棚にあげ彼に注意すると、情けない声で返された。そこで、上を見上げた私はその理由を理解した。

「あーらら、部屋に行っちゃったんだね。そりゃ仕方ないか」

「にゃー……」

 どうやら白い彼女は出窓から引っ込んでしまったらしい。
 しょんぼりとした黒い彼の下がった耳を見ながら、お互い相手の事で一喜一憂しているのは同じだね、と微笑む。

 それから、私はその場にしゃがみ込み、彼の綺麗な黄色い目と視線を合わせた。
 きょとんとした水晶の透き通った瞳に、にこりと笑いかける。
 そして先日から考えていた……先程の先輩の言葉で、確定となった提案を口にする。

「おーっし! お互い片想い同士、一緒に暮らそっか!」

 灰色の電柱横、アスファルトの上でしゃがんで聞けば、黒い彼は下げていた耳をぱっと立ち上げ、まるで笑っているみたいに曲線を描いた口元を開く。

「にゃあーん♪」

 そう軽快に一声上げてから、再び私にすりすり、と頭を擦りつける。
 
 私にはそれが「これからよろしく!」と言ってくれている様に聞こえた。
 
 ーーー黒い彼と私の片想い。

 いつか、届く日がくるだろうか。

 そんな願いを思い浮かべながら、私は同居人となった彼の背をするりと撫でた。

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