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背徳純愛小説『藍に堕ちて』第十二話「返信」

 朝日と共に目を覚ました藍華は、まだ六時前という早い時間ではあったが久方ぶりにすっきりとした朝を迎えた。

 階下からは、すでに家人の物音が聞こえている。
 きっと裕の母親が朝食の準備をしてくれているのだろう。

 手伝いに行くため、簡単に身支度を整えた。
 するとふと、いつもよりも格段と動きやすいことに気付く。

(身体、軽い……?)

 十分に眠れたからだろうか。
 疲労がすっかり消えていた。

 普通は他人の家でこうも身体が回復することはないだろうが、藍華には逆だったらしい。

 換気のために窓を開ければ、ひやりと冷たい風が頬を撫でた。
 目を閉じ、澄んだ朝の空気を肺いっぱいに吸い込んでみる。

 山を越え、田んぼの上を通ってきたからだろうか。

 馥郁とした果実の香りや、稲の懐かしい香ばしさがたおやかに混じり合っている。
 秋の味だ。と、そう思った。

(気持ち良い……)

 深呼吸を数回、繰り返す。
 こんな風にするのは子供の頃以来だ。

 まるで、身体が芯から浄化されていくような気がした。

 昨夜、吐き気をもよおしていたほどの心の淀みが、しゅわしゅわと泡のように溶け出し、霞んでいく。 やがてゆっくりと瞼を開けると、頭がすっきりと晴れ渡り、眼前には金色の海を扇状に走る朝日があった。 そのあまりの美しさに、藍華は感嘆のため息を吐いた。

(綺麗……)

 睡眠不足が解消されたせいなのだろう。
 重たげに首を垂れた稲穂の実が、一粒一粒まで鮮明に見えるようだ。

 思えば、あの日以降眠れなかったせいでより一層気分が落ち込んでいた気がする。
 不眠は精神を病みやすいとは聞くが、近頃のひどい気分にはそれも関係していたのかもしれない。

 前向き、というほどではないものの、ほんの少しだけ心が軽いのは、きっと身体と連動しているからなのだろう。

 藍華はひと時のやすらぎを満喫した後、裕の母親を手伝うため階下へと降りて行った。

***

「先輩、それじゃ行きましょうか!」

「ええ」

「裕、運転にはくれぐれも気をつけるのよ。貴女、正真正銘のペーパードライバーなんだから」

 朝食を終えた藍華達は、昨日話した通り藍染体験に行くことになった。

 目的地は蒅の作業場である『蔵色藍染處《くらしきあいぞめどころ》』だ。
 裕の実家から車で十分ほどの距離にあるらしい。

 そのため藍華達は裕の実家の車を借りて出発することになった。

「わかってるって。てゆかこんな田舎道じゃぶつけようがないってば。それに、たまにレンタカー借りて運転してるから大丈夫!」

 母親が滾々と注意するのを、運転席に座る裕はあっけらかんと笑い飛ばした。

 確かに都心にいる間は運転する機会が少ないため、彼女の母親が心配するのも無理はないのだろう。

「用水路とかちゃんと見るのよ? あとスピード出し過ぎないこと、昔は自転車でよく田んぼに落っこちてたでしょ」

「んもーっ、お母さんってばいつの話よ! 心配し過ぎだってば! ちゃんと気をつけるからはい、もう出るから離れてねー!」

「まったくもう……じゃあ藍華さん、楽しんでいらっしゃいね」

「はい、ありがとうございます。行ってきます」

 藍華は助手席から裕の母親に手を振った。玄関前に佇む彼女はにこにこと微笑んでいて、裕との言い合いもどことなく楽しそうだった。

「ほんっと、いつまでも子供扱いなんだから。困っちゃいますよ」

 だんだんと裕の実家が遠ざかっていく中、隣からは拗ねた声が聞こえてくる。

「ふふ。親にしてみれば、子供はずっと子供なんでしょうね」

「もうあたし二十五なのにー」

 頬を膨らませて不満げに言う裕を見つつ、藍華はふとまだ一度もスマホを確認していなかったことを思い出した。

 有給休暇中なので大丈夫だとは思うが、一応会社から連絡が入っていないかは確認しておくべきだろう。 原則、休暇中の連絡は取らなくても良いとなっているが、後輩達がたまに藍華に困り事を連絡してくる時があるのだ。

 藍華は今いる部署では古参にあたるため、聞いた方が早いということがままある。

「裕ちゃん、ちょっとだけスマホ見てもいい? 会社から着信が無いか、念のため」

「どうぞどうぞー。でも来てたら嫌ですねそれ。あたしなら見なかったことにします!」

「あははっ」

 ふん、と鼻息荒く言い切る裕の様子につい笑いをこぼしながら、バッグからスマホを取り出した。

 そして、レザーケースを開き、画面を見た瞬間、藍華は一瞬息が詰まった気がした。

「っ……」

(返事、きてた)

 トップ画面に浮かぶ綱昭からのメッセージ通知。

 それを、見てしまった。

「先輩? どうしました?」

 無言になった藍華を訝しんだのか、裕に声をかけられる。

 はっとした藍華は慌てて首を横に振った。そして、すぐにレザーケースを閉じスマホをバッグに落とし込む。

「ううん。何でもないの。会社からは連絡なかったわ。良かった」

「休みの時に連絡って違反ですよね? あー……でも、確かに部長とかに聞くより先輩に聞きたいって気持ち、わかるなぁ……」

「狩井戸《かりいど》部長はちょっと気難しいものね」

 裕と話しながら藍華は綱昭からの返信について考えていた。

 通知に記されていた時間は午前一時過ぎ。
 深夜だ。

(相手の人が、帰った時間かしら……嫌だ、私、何を考えてるの)

 久しぶりにぐっすり眠れて。

 徳島の景色や裕達母娘のやりとりに癒されて、せっかく気分が良くなっていたのに。

 綺麗になったはずの心に再び黒い墨を落とされた気がして、藍華は笑顔が引き攣りそうになるのをなんとか必死に堪えた。

十三話へ続く


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