昭和であった19 〜ご馳走様!外食編 〜
私の子供時代… 昭和30年代、一般家庭の外食はかなり特別なものだった。
地元の商店街にある外食店は、蕎麦屋、寿司屋、中華食堂、定食屋、洋食レストラン、居酒屋、バーくらいがせいぜいである。
ハンバーガー店もファミレスもイタリア料理店もフレンチもピザ屋もカレー専門店もラーメン専門店も、まだ何もない時代。
なので、一般家庭のファミリー層にとって外食の選択肢は少なく、日常に気楽に外食を楽しむ習慣はまだまだ少なかった。
当時比較的多かったのは『店屋物(てんやもの)』である。
要するに自宅から頼む出前。
大概の場合は近所の蕎麦屋か寿司屋であった。
前にも記したが、私の母親は給料日前に現金が底をつき始めると蕎麦屋から我々のために出前としては最も安価なラーメンを頼んだ。
他にも手料理を作っている暇のない時には店屋物に頼ることもあった。
そんな時、我々子供たちが頼むのは丼物。
私や兄はよく馴染みの蕎麦屋のカツ丼を好んだ。
いつの頃だったか、近所に比較的きちんとした洋食レストランが開店し、そこは珍しく出前も受けてくれた。
そこのエビフライは絶品だった!
大振りの車海老でオリジナルのタルタルソースも円やかな酸味。
稀に昼間外出の用事があって夕食の準備が出来なかった時に母は留守番のご褒美にと、帰り掛けにこの店に寄って『エビフライライス』の出前を頼んできてくれる。ごく稀だったが、我々にとっては大変なご褒美であった。
高度成長、消費文化が急速に高まった時代、その象徴は大きな繁華街のデパートだった。
週末になると人々はデパートに押しかけた。
私の両親も御多分に洩れず、次に購入したい家電製品や家具や調度品などを物色しに家族でデパートに行く事は多かった。
そんな時には昼食はデパートの小綺麗なレストランになる。
私はいつも『お子様ランチ』を選んだ。
サラダ、チキンライス、エビフライ、ハンバーグ、そしてデザート…好みの全てを集合させた子供用プレートには世の子供たちは皆魅了され、私もその例外ではなかった。(兄は何だか凝った高いメニューを選んでいた…笑)
私的にはデパートは『お子様ランチ』を食べに行く場所であった。
一方、私の父はとても家族での外食の機会を大切にした。
彼は外食を食教育、マナー教育、社会教育、情操教育の重要な機会と考えていたようだ。
それは自分が戦前恵まれた環境に育ったことに関係している様で、そういった体験を無理をしてでも自分の子供にも体験させたかったのだと私は理解している。
父の懐がどの位余裕があったのか全く知り得なかったが、外食の機会には支払いは全て父が行い、出来る限りきちんとした外食店に我々を連れて行ってくれた。
月に1、2度のことだ。
それら我が家の外食体験についてお話ししよう。
『寿司屋』
品川にいた頃も目黒の実家に戻ってからも、父は地元寿司屋との付き合いをとても大事にした。
寿司は余程のことがない限り出前は取らない。
腕の良いネタの良い店を近隣に見つけて行きつけにする。
そういった行きつけの店に行き、カウンターでその日仕入れたお勧めの新鮮なネタを食べるものと決めていた。
寿司屋とは長く付き合い、店主に家族それぞれの好みを把握させた上で職人とのコミュニケーションを楽しみながらその日の魚や握りを楽しむのだ。
「今日はお勧めは?」
「いい赤貝が入りましたよ」
「白身はどう?」
「今日は平目がいいですね」
「じゃ、俺は少し造ってもらおうかな。熱燗1本つけて…あとは聞いてやってくれる?」
「へい、僕たちはどうする?最初から握りにしますか?」
という感じで、食事はすすんでいく…
場合によっては…
「今日は懐具合があんまり良くないんだ。1人この位で適当に握ってくれるかな」と指で示す。
「へい、承知しました。ま、サービスしときますよ」
また…
「先週ボーナスが入ったから、今日は気にせずに注文聞いてあげてくれる?」
「分かりました…」
店の主人は父がどんな仕事をしていて、経済状態やどの位の暮らし向きなのかをちゃんと把握している。
母や私や兄の好みも知っている。
寿司屋とはどの様に付き合い、どんな順番で魚を楽しみ、どの様に季節ごとの寿司の味覚を楽しむのか…
父は腕の良い寿司屋との上手な付き合い方を教えてくれた。
『成都飯店』
父には戦前学生時代から付き合いのある中華料理店があった。
学芸大学の近くにあった『成都飯店』という四川料理店だ。
我々家族はここにもよく連れて行って貰った。
地元の町の中華屋では決して味わえない本格的な四川料理だ。
この店に行く時は我々家族4人だけでなく、親戚や付き合いの深い友人家族が加わることが多かった。
中華料理はある程度人数がいた方が楽しい。
大きな丸テーブルを7、8人で囲んで、なるべく色々な料理を楽しむのだ。
クラゲ、ピータン、蒸し鶏の前菜から始まり、豚、牛、海老、魚介、煮物、揚げ物、点心等々…様々な料理が入れ替わり立ち替わり次々と登場する…
北支四川の料理なので多くは子供には結構辛味が強いのだが、それでもたまの大ご馳走であった。
注文は毎回いくつか新しいものも加え、参加者の顔ぶれを見ながら全て父が行う。私が大好きだったのは豚の角煮と中華おこげ…
中華料理の食べ方、楽しみ方…それは今でも身に付いている。
あの懐かしい学芸大学の『成都飯店』は今はもうない…
『銀座 みかわや』
日本の洋食の歴史を辿ると、その源流は明治時代、横浜の『ニューグランド』と銀座の『みかわや』に辿り着く。
私にとって銀座『みかわや』も懐かしい家族外食の聖地だ。
父はスプーンやナイフ・フォークの使い方、洋食のマナーについては煩かった。
普段自宅でもハンバーグやフライなど洋食の食卓に箸が置いてあることを嫌い、デザートナイフの使い方も上手だった。
『みかわや』に行く時はコース料理となる。
前菜からスープへ、魚料理、肉料理、そしてデザートへ…
それぞれの食器を綺麗に使い分ける。
フォークの持ち替えなどは気にしないが、魚用のナイフや肉用のナイフ、フォークの使い方など食器を器用に上手に使いこなすことを求められた。
かなり煩く言われたので、私も兄も子供の頃から洋食のマナーについては自然に身に付けることが出来た。
ちなみに『みかわや』の私のお気に入りメニューはカニグラタンとビーフシチューだった。
『ステーキ』
なんという店の名前だったか…どうしても思い出せない…
父がステーキ肉を購入してきて、自宅で焼いてくれた話は前回したが、銀座のステーキハウスにもよく連れて行って貰った。
そこでのステーキはランプかサーロイン、Tボーンのこともあった。
ただし自宅とは異なりここではサラダや付け合わせ野菜、フランスパンにデザートが付く。
これもワクワクする外食であった。
『神田 藪蕎麦』
父も兄も私も日本蕎麦が大好きだ。
近所の蕎麦屋のもり蕎麦も好きだが、老舗の江戸前蕎麦屋はなお美味しい。
永坂の更科にも結構連れて行かれたが、父が最も好きだったのは『神田 藪蕎麦』だ。
行くと必ず父は日本酒と板わさを頼む。
さらにお酒が進むと、アナゴ焼きや天ぷらを頼み、我々には蕎麦寿司と海老のかき揚げを頼んでくれる。
時間は掛けない。
蕎麦屋はサービスも手早い。
短い時間で前菜とばかりに酒と肴を楽しむと、さっさとせいろの蕎麦を頼む。
藪蕎麦はもりが少ないので、それぞれ2、3枚をささっと平らげ、蕎麦湯を飲んで早々に店を出るという運びだ。
ちなみに、目黒に越した頃近所に自慢の手打ちそばの店が出来た。
そこは蕎麦も天ぷらも美味しいのだが、少し高級で手が混んでいて、サービスが遅い…
父は「そばの食わせ方の何も分かっていない!」と捨て台詞を残して2度と訪れる事はなかった。
やがて日本も飽食の時代となり、名店神田藪蕎麦も東京中、いや日本中から客が押し寄せ、待ち時間ばかりが長くなり、父も我々もすっかり行かなくなってしまった。
今でもそう思うが、『食』は『文化』である。
高級であるか庶民的であるかが問題なのではない。
美味しいものをいただくと同時に、その食が育んだ『文化』も一緒に味わう…それが何よりも大事だということ…
父が私たち子供に伝えてくれたことである。
次回は時期も時期なので、『美味しい』昭和の最後に年末年始の思い出を記すことにしよう…