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コスパ
子供のオモチャがけたたましく床の上を跳ねながら音楽を鳴らしている。
2歳の息子にとって面白く楽しいオモチャだとわかる。笑顔で追いかけては、持ち上げようとして、また落としている。下の階にも隣の部屋にも迷惑じゃないかと気が気でないが、笑顔の息子をみると、今度ちょっと高いティッシュでも持って謝りに行こう。
できるだけ、コスパの良い謝罪をしよう。と思う。
僕が高校生の時、母が車で接触事故を起こしたとき、大きく戸惑い大変なことをしてしまったと思った母は到底保険で払えないようなことも「しなければならない」という発想でいたことを思いだす。「行けなくなった旅行代を出せ」という相手の要求に、危うく飲みそうになっていた。しかも代理店を通さずに。
僕は謝罪について深く感がえさせられた。
「終わりがないじゃないか」
しかし、社会に出てからコスパの良い謝罪というのは非常に大事な事と知る。つまり、謝罪は重要度がそれほど高くないと気がつく。
仕事のミスで社内の人に迷惑をかけたときも「申し訳ございません」で始まるメールを上司に指摘された。「それは最後でよく、何が間違いで何が正しいことであるかを修正することと、そのミスが及ぼす範囲でこちらがやること、相手にやってもらいたいことを、まず「述べよ」と。
「謝るのはその後でいい」
とにかく「謝る」ことが美徳化されていた頃の日本(多少大げさだが)ではすべての尻ぬぐいをしなければならないと想いがちである。もうそれはほとんど見なくなり、それは人としての器が小さくなったと考えることもできるが、やはり「全ての尻ぬぐい」をする必要はないと思う。
企業の不祥事の謝罪会見でも迅速性が求められるが、この謝罪の立ち位置が分かってない謝罪と分かっている謝罪はすぐに観てわかる。よく分かっていない謝罪は突っ込まれ、大々的にメディアにとりあげられ叩かれ、笑われ、かわいそうなほど悪く言われる。コスパのよい謝罪ではない。
とにかくコスパ。なのだ。