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1.17忘れてはならない過去と人間の底力

1.17あれから26年
阪神淡路大震災
この日をしっかり振り返りをしてたのが
過去ログでこの投稿だけでした、、、
忘れちゃいけない過去
人間の底力も忘れちゃいけない
どんな世も乗り越えていけるってこと❣️
ありがとう 合唱



⇩震災の節目の20年の時の1.17Facebook投稿⇩

阪神淡路大震災から20年
1月17日午前5時46分
今日、この日珍しく家族が揃って起きていました。
息子は早朝のアルバイトに出勤主人と私はテレビに向かって、自然と黙祷。。。
当時、板宿に住む主人の従姉妹が犠牲となり葬儀に参列したことは覚えてますが
それがどんな時期だったのか記憶に残ってないのです。
震災が起こってすぐライフラインを経たれた自宅をあとに二人は加古川の私の実家に身を寄せました。
身を寄せた翌日だったか?数日後だったか?うちの両親は兵庫区の避難所で生活している叔母夫婦の様子を見にクルマを走らせた。
途中、大渋滞に巻き込まれながらも、立ち寄ったコンビニで
避難所に行くなら、ぜひこれを持って行ってくれとコンビニ店主から大量のお弁当の差し入れを言付かって避難所である学校に行ったそうだ。
そこで、叔母夫婦を探しあて、お弁当を言付けるとそこの部屋のみんなにとても喜んでもらえたんやと
その時の様子や、道すがらの被災地の様子を興奮しながらしゃべっていた今は亡き父のことが思い出されます。
私は10日ほど実家で世話になったのですが、
毎日、リュックサックにスニーカー、マスク装着で普段はスーツ出勤だった三宮の会社に電車や徒歩で
普段の何倍もの時間をかけて通勤する主人を見送っていた。
周囲は身なりをかまってる場合でもなく無精髭もはやし放題
そこから主人は口ヒゲを残したので震災ヒゲといってました。
ダウンジャケットは通勤中にかぶる粉塵などで1シーズンでダメにしてしまいました。
自宅の主だったライフラインは10日ほどで復旧し自宅に戻ってぼちぼちと片付けをはじめた。
三宮の繁華街へ足を運んだのは、震災が起きてひと月ぐらいたった頃だっただろうか・・・・
電車で通る見慣れた風景のあまりもの変わりように
心が痛かった、、、、
ちょっとした振動を感じると、胸騒ぎが起こる
そんな症状が続いてたように記憶しています。
全てがうろ覚えなのは、月日が経ったからもあるのでしょうが
それよりも、もっと辛い経験をしている人がたくさんいたので
こんなことで、弱音を吐いてはいけないそんな気持ちもあったので
その場の出来事に深く身を置かなかったというのもあるのでしょう。
今回、こんな風に文字におこしたのは初めてなのかも?
私にとって、震災で一番に刻まれた記憶は
逆境に陥った時にこそ人は力を発揮する。
人は支え合うことでますます力を発揮する。
粛々と目の前のことに向き合うことで必ず光が見えてくる。
震災で失われた6000人以上もの尊い命。
我々が前を向いて生きることでその御霊も慰められるのではないでしょうか。
節目の20年
みなさんに、いろんな想いがうまれたことでしょう。。。。

⇧忘れはいけない。備忘録として残します。

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