【1分で読める 500字コラム 番外編1500字】 「待つ」サービスマン
千葉雅也さんのサイゼリヤに関するツイートが話題になっていました。
こちらに対して、「コロナでの措置だ」「それ相応の価格だ」「面倒なことを言うな」などなどネガティブなリツイートやリプも多かったようです。
千葉さんは哲学家で小説家。どちらの職業も「言葉」を重んじて、精査する作業の積み重ねで成り立っています。それを知ってる人であれば、千葉さんが言及したのは飲食店のサービスそのものではなく、社会における人と言葉の在り方だと想像がつきそうですが、リプで嚙みついていた人たちはそうではなく、安価ファミレスのサービスくらいでうるさいこと言うなと言わんばかりの突っかかり方でした。
スタッフの作業を合理化し、ミスなく、かつスピーディに料理の提供までもっていく。サイゼリヤの料理の品質とあの価格は、並々ならぬ企業努力によって成り立っているわけですが、一方で「レストラン」としての在り方はどうなのか。
先日、あるファミリーレストランで、スタッフが両手に大皿を持って「お待たせしました」とテーブル前に現れました。二人掛けの小さなテーブルだったので、グラスや先着の皿を整理しないと大皿が置けないわけですが、スタッフは両手がふさがっているため、テーブル上を自分で片付けることができません。おそらく、「お待たせ致しました」の声掛けと同時に、客側に皿を置くスペースを空けてもらう前提が、無意識のうちにスタッフの中に植え付けられているのでしょう。
こちらはその彼の様子を見て、ちょっと意地悪を。
「Aの料理のお客様?」
「はい、わたしです」
私も連れもテーブル上のものに一切触らずに待っていると、スタッフの眉間にわずかな歪みが現れ、みるみるうちに目は不機嫌に。マスクをしていてもなんとなく表情はわかるものですね。
結局、スタッフはわずかな隙間に皿をのせ、その皿ですでにテーブルにあった小皿を押し退ける形で料理を配膳していきました。料理はテーブルに乗りましたが、皿で皿を押すなどサービスマンとしては完全にアウト。まともなレストランのホールスタッフは、基本的に常に片手を空けてホール作業をするものですが(フルコースサービスや片付けの場合などもちろん例外はあります)、ここにはおそらくそのようなスタッフ教育はないのでしょう。ただ、それが間違いだとは思いません。客単価の安価な店の人材教育の限界なのではと感じます。
ではくだんのスタッフはどうしたらよかったのでしょうか。自分の両手はふさがっている、テーブルに料理を置くスペースはない、客は動いてくれない。
となると「言葉」を使うほかありません。客側がグラスや皿を気持ちよく動かすような、美しくリズムよい言葉を自ら発するしかないのです。しかし、このレベルのホールスタッフにはそれができない、おそらく「皿の移動を客に頼む」など考えにも及ばないでしょう。その結果、皿で皿を押すという醜態を客に見せることになるのです。
資本主義社会として、人間がロボットのように働くよう高度なレベルで合理化にこだわった結果なのかもしれません。極限まで無駄を省き、ささいなコミュニケーションを皆無にした中で得た経験では、いざという時の機転のための言葉を生み出せんません。
「合理化」はあらゆるものを数値化し、目に見えないものを見えるように仕組化していく作業です。そうできないものは劣化の道をたどっていく。「言葉によるコミュニケーション」は、合理的にマニュアル化したとたん生気を失い、機械的人間を生み出し、それ以外のことをしない、できない人間を作り上げます。客とのコミュニケーションを取れないホールスタッフが、何よりもそれを表しているのです。
★★★
参考 ジョージ・リッツア「マクドナルド化する社会」