note1本書くほどじゃないけれど。雑文も雑文も雑文で。
クラフトコーラに、笑う
駅前のイベントの屋台で、店員さんが子どもに説明をしている。
「これはクラフトコーラっていって普通のコーラと違うよ、大丈夫?いい?買う?」
またある時は、町の自治会の夏祭りで小学生男子が大騒ぎしていた。
「なにこれ!!マズッ。え、なにこれ。コーラじゃねえの。うええええ!死ぬ!」
彼が買ったのはクラフトコーラ。ベースが何なのかはわからないけど、コーラだと思って飲んだのに、味がクラフトコーラだったらそりゃあ驚く。小学生中学生メインの公園の祭りでクラフトコーラを出すその微妙なセンスを思い、じわじわと笑いがこみあげてきた。流行ってるものね、クラフトコーラ。店主よ、町のお祭りはコカ・コーラ、ペプシコーラでよいのだ。
おそらく前者のクラフトコーラ屋さんも、子どもに売って微妙な顔をされたことがあるんだろう。「大丈夫?」という言葉に、これもまたくすりと笑う。
最近は「夏祭り」と聞いてビールと焼き鳥なんかを求めて遊びに行くと肩透かしを食うことも多い。スパイスカレーやタコス、ケバブ、無添加パン、そしてクラフトコーラ・ビールの屋台が並んでいて、あ、そうかこっち系ねと頭を切り替える。ある日の祭りで私は魯肉飯を買い、こってりした濃い煮込みを冷えたジャスミンティーで流し込んだ。大人はこうして切り替えられるけど、子どもはやはりね。コーラといったら欲しいのはあのコーラなのだ。
知っている人が、殺された
安倍晋三さんが亡くなった。衝撃的なニュースを聞いて、息子が言う。
「知ってる人が『殺された』の、初めて」
初めは、息子が何を言っているのかわからなかった。一呼吸置いて、彼の言葉をごくんと飲み込んでああそうかと理解した。
彼が知っている芸能人や著名人のだれかれが「亡くなった」というニュースが流れてくるのは日常茶飯事だけども、「殺された」のは初めてということだ。「殺された」と「病気や事故で亡くなった」のは、明らかに死に方が違う。もちろん、「知っている」とはいえ、それは一方的な状態。そういわれてみると、私もこの状態は初めてかもしれないと過去を思い返してみる。きっと「知っている人が殺された」は初めてだ。
安倍さんを国葬にとのニュースが出てから、SNSのタイムラインはそれについて激しい言葉で言及する人をよく見た。私も何も意見がないわけではないけれど、何をどう表現していよいのかわからない。後日報じられた宗教団体との関係も、テレビや新聞、インターネットで知る情報だけで、自分で調べていないからどこをどう切り口に意見すれば良いのかわからない。
そんな中、SNSでひとつの投稿を見た。
「は?国葬?何考えてんの」
「は?」という言葉は、書き言葉でも話し言葉でもこれ以上ない冷たさを感じる。一文字で明らかな蔑みを表現できる、カジュアルで便利で、でもどうしようもなく品位の低い言葉だ。投稿主は「ライター」と名乗っている人物だった。
安倍氏の功績の全てを私は知らない。でも、この平和な日本で銃弾に倒れて死ぬなんて、誰も予想していなかった。それくらい、安倍氏は国民にとって「知っている人」で、日々一般人には想像もつかない危険にさらされている人だった。しかも、銃を放った人は銃を入手しやすい世界の人間ではなく、一般人だった。一般人が執念と逆恨みにかられて銃を自作して暗殺を企てる状態が、そんな世界があるという事実が私は怖かった。
国葬の決定に憤るくだんの「ライター」は、身分も明かさず安全な場所から「は?」の一言で殺された安部氏とその周りの人たちを糾弾する。
こういうのが、私がTwitterで「ライター」を名乗りたくない理由のひとつでもある。
知っている人が、亡くなった
ふみぐらさんが亡くなった。闘病生活が始まったお知らせを受けてから、1年と少し。あっという間だったように感じる。今年に入ってからは、タイムラインにふみぐらさんの言葉を見るとホッとした。会ったことのない人だ。zoomで一度だけお話をした。普段はテキストで言葉を交わしたけれど、それも頻繁ではなく、決して「仲良しです」と言える親しい間柄ではなかった。それでも、私はふみぐらさんの書くものを読み、ふみぐらさんは私が書く日記をたまに読んでくれて、「どこへ連れて行かれるかわからない」と面白がってくれた。本を作る仕事をしているふみぐらさんに言葉をもらえると嬉しかった。
ふみぐらさんのエッセイを集めた「ふみぐら小品」制作に参加して、皆で彼に文庫本をプレゼントした。お礼にと言ってふみぐらさんとあやこさんが二人で染めた手ぬぐいをもらった。実はその時、ふみぐらさんを思って泣いた。ふみぐらさんが亡くなったと知った時よりも泣いた。手仕事を残す人の、ふみぐらさんご夫妻の優しさを受け止めて泣いた。お二人にとって、仕事で本やものを作ることも、畑仕事も、食べることも、手ぬぐいを染めることも、すべてひと続きで、これまで私が読んだふみぐらさんの文章も、何もかもが繋がっていて。ああもう、何書いているかわからなくなってきて、これを書きながらまた泣けてくる。もらった手ぬぐいで涙を拭う。もらった当時は、染料のよい香りがしていて、「勿体無くて使えないかも」と言ったら、「たくさん使ってもらうとこっちにも生きるエネルギー(?)が伝わってきそうなので、ぜひ日常使いしてください!!」とふみぐらさんに言われたので、どんどん使っている。使っているうちに、最初の頃のにおいはなくなって、パリッとしていた手ぬぐいは何だかふわふわと柔らかくなってきた。どうしたって時間は進むし、物事は変化する。
ふみぐらさんの、弓手一平さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。
10年ぶりに炊飯器を新調した
売場に並ぶ大量の炊飯器を前に、まごまごした。値段は数千円から十数万円。数年前から高額な炊飯器が出ているのは知っていたけど、いざ買うとなるとラインナップに困惑も困惑。一体なんだこれは。基本はIH炊きと圧力炊き。IHは三万円台くらいまで。圧力炊きになると三万円台~十数万円。
圧力炊きはごはんの味が「違う」らしい。店員さんに何やら違いを説明されて、食べ比べたことありますかと質問をする。比べたことなさそうな返答だった。炊飯器なんてひとつあれば十分な家電だ。そんなもんだ。コロナが流行する前は、そういえば家電売り場でも最新の調理器具を使った試食コーナーがあったっけ。そういう景色は、めっきり見なくなった。
今、家にある炊飯器は、たしか一万円台。文化鍋でごはんを炊く生活の補助に、タイマー付きのものが欲しくて買ったものだ。ただ炊くだけの機能がついたこれの出番は、主に朝。起床後すぐにごはんが欲しい時は、やっぱりタイマーで炊けるのが便利。この10年で内釜を二度取り替えて使ってきたが、いいかげん外側も薄汚れてきて、蒸気が出る穴のあたりにカサカサした取れない汚れがこびりついている。というわけでの新調で、同じようなスペックのものを買いにいったのに、売り場にずらりと並ぶ炊飯器を見ていると、なんだかいらない欲がむくむくと湧いてきた。
私は 在庫限りの旧モデルで二万円台後半まで値下げされた圧力炊きにロックオンされる。元値は四万円近い。最終的にそれとデザイン重視のIH二万円台のふたつに絞って、悩む。圧力炊きってそんなに違うのかしら。比べているふたつは同じ機能ではないので比較対象としてはちょっとブレてる。そのブレに私の家電への思いが反映されている。結局、炊ければどうということでもない。悩んだものの、決め手になったのはごはんの味ではなく、蓋の手入れのしやすさである。圧力炊きの蓋の構造のなんと複雑なことか。蓋の内外に部品が多すぎて、店員さんが分解しているのを見てくらくらした。
それになにより、十万円以上の炊飯器ならともかく、圧力三万円台とIH二万円台を悩んだところで、ごはん味がそう変わるとも思えない。結局、ふたつ買わないと比べようがないのだ。ふふんだ、それにいつもガス炊きで美味しいごはん食べてるしね。こういうの、すっぱい葡萄って言うんだっけ。
愛しい創作、愛しい文章 #真夜中インター
同人誌「真夜中インター」を読了したあと、サッポロ一番が食べたくなりました。やはり冊子後半の掲載作品は、読後感において有利、いや、それは単に私がいやしんぼだからでしょうか。今もメロンと白桃のパフェを待っています。
(長いので、続く。)