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【#一日一題 木曜更新】 日記、からの
山陽新聞の「一日一題」が大好きな岡山在住の人間が、勝手に自分の「一日一題」を新聞と同様800字以内で書き、週に1度木曜日に更新します。
先日、友人が日記文学とはなんぞや?と問いを立てていた。
日記は本来なら人に見せる予定のない書き物だろう。日本で古いのは土佐日記か。そこから続く日記文学は女性の書き手が多いという。「どこかの女房が日記に書いているわよ」という漫画のセリフに笑えたのは、確か高校生になってから。これらの古い古い日記の著者は、おそらく人に見せる前提では書いていない(諸説ある)。だからこそ赤裸々で、情けなくて、狂おしい表現に魅了される。
くだんの友人は言う。「最近、日記と称してインターネットに公開されているものは果たして日記と言えるのだろうか」と。確かに。死ねとか去ねとか、そんな乱暴な表現はあまり見ない。見せる前提なら、それは日記というよりも随筆(エッセイ)の類になるかもしれない。まあ、どちらでもいい。文章に正解なんてない。
私は胸の内でわりと人を殺す。日記、というか日々の書き留めメモにもけっこう辛辣な言葉を並べている。冷静になるために、書き出して頭の中を整理する。
「いじめられた記憶って消えないよね。感情の昇華はできるかもだけど。中年の今、そいつらが事業の失敗とか前科者になったとか借金とか家族に逃げられたとか聞くとザマーミロと思う。家族の死すら、ザマーミロになる。今、苦しいお若いみんな、大人になるとこんなザマーミロ案件が出てくるので、因果応報を信じて大人の答え合わせまで生き抜いて。」
これはある日のメモ、いじめのニュースでも見たんだろうか。人に見せる前提のない言葉は、こんなにも暗い。この時に言ういじめは、中学生の時に容姿をいじられ、廊下で見つかるたびに後ろからつけられて悪口を言われ、すれ違うたびに睨まれた。私は今生きているので、それは壮絶ないじめとは言わないかもしれないが、執拗だった彼らを思い出すと未だにうんざりする。
しかしこのメモを掘り起こして気がついた。私は今、心配事や悩み事は絶えないものの、幸せに暮らしている。比較的機嫌良く家族に、友人に、仕事に接している。こんな人間にですら、程度はどうあれいじめは根深い遺恨を残す。相手の不幸を全て喜び、死んだと聞いても、「あ、そう」で終わる非情な人間をつくりだす。
日記には、死ね去ね書くよねって話。
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