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【アーカイブ】1976年のサモ・ハン(洪金寶)①

1976年、香港映画界は不世出のスーパースター、ブルース・リー(李小龍)の急死から3年が経過し、ようやくそのショックから立ち直ろうとしていました。その証拠に、ブルースの訃報直後公開や制作が中止された作品が、この年からポツポツと封切られ始めたのです。若き日のジャッキー・チェン(成龍)が役付きで助演し、兄弟子分サモ・ハン(洪金寶)が悪役と武術指導を担当した『秘龍拳/少林門』(76年)もそうした1本でした。

少林門

この作品は、後年ハリウッドへ進出を果たすジョン・ウー(吳宇森)監督が、74年に全編韓国ロケで撮影した作品です。監督デビュー作『カラテ愚連隊』(75年)で武術指導を担当させたジャッキーの個性と身体能力に注目したウー監督が、この作品で主役のレオン・タン(譚道良)を助ける槍使いの若者役に抜擢したのです。そしてこの役を見初めたロー・ウェイ(羅維)監督夫人がマネージャーのウィリー・チェン(陳自強)を当時ジャッキーが滞在していたオーストラリアへ派遣し、彼の説得でジャッキーは急遽香港へ舞い戻り、ロー・ウェイ・カンパニーの新人として台湾で主演デビューを果たすのは周知の事実です。
ただし、『秘龍拳/少林門』が公開されるにあたって、新たにOP映像を撮ることになり、そのロケでサモ・ハン(3点画像上)は悪役のジェームス・ティエン(田俊、3点画像中)やゴールデン・ハーベスト設立以来武術指導などで組むことが多かったウィルソン・トン(唐偉成、3点画像下)と共に台湾へ渡ります。実はこの流れ、当時のサモのキャリアで非常に異彩を放っているのです。

サモ少林門

田俊

唐偉成

1971年に設立されたゴールデン・ハーベストは、当初資金や人材不足を補うため、韓国やタイの映画会社と組むことが多く、時には合作という形で作品の制作にあたっていました。そのためロケも韓国やタイで行うことが必然となりました。ブルース・リーがアメリカから香港へ戻りゴールデン・ハーベストで初主演した『ドラゴン危機一発』(71年)がタイを舞台としていたのもそうした流れからです。ゴールデン・ハーベスト設立当初から武術指導兼俳優として活動していたサモ・ハンもまた香港でのセット撮影以外では、もっぱらロケは韓国やタイが多く、台湾映画界との縁は非常に薄かったのです。
しかし前述の通りブルース・リー死後、功夫映画の制作は下火となり、多忙を極めていたサモは一転、苦境を迎えることになりました。そのためゴールデン・ハーベスト社外の仕事で糊口をしのぐなか、76年の初めゴールデン・ハーベストを含む複数の仕事をこなすため、それまで行くことの少なかった台湾へ渡ることになったワケです。
ジャッキーの主演作『拳精』(78年)ほか、多数の功夫映画でロケに使用されている台中の行天宮で撮影は行われました。実はここで功夫映画ファンにとっては大変興味深い"顔合せ"が実現しています。撮影にあたり、台湾に居を置くスタントマンや無名の俳優たちが"やられ役"として投入されているのですが、そのなかに後年ショウ・ブラザースのトップ監督だったチャン・チェ(張徹)の『五毒拳』(78年)の主演に抜擢される江生(2点画像上)と鹿峯(2点画像下)の顔が見えるのです。(続く)

江生

鹿峯

※本稿は、SNS「Facebook」ホームへ2019年7月に寄稿した内容を加筆・修正したものです。

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