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4年ぶりらしい^^

やっぱり、noteが一番いい。
スッキリしていて綺麗な佇まいが変わらずにあって安心。

振り返るのも面倒だし、全削除もちょっと引っかかるのでこのまましれっと書いてみる。私らしさもないし、文体も内容もブレブレだけど”言葉”を書くことは自然なことでストレスじゃあない。

そもそも「私」なんてどこにもいなかった。


そう書くと、

そのむかし日本でも流行った『非二元・ノンデュアリティ』のお話?
と、奇特にもこれを読んでくださる方は思うかもしれないけれど・・・その通り!

でも、その昔(10年くらい前らしい)に流行ったときをこの私は知らない。だいぶ流行りからは遅れているけれど、流れに乗ってきたら今だった。正確には3年前だった。

言葉を使って書くと面倒なことを、多くの覚者や悟りのティチャーと呼ばれる人たちは言ったり書いたりしている。本当にわかっている人とそうでもない人と頭の理解だけの人と、いろいろあるのが面白いし、そんなふうに感じる「私」もある。

私がいないのに私はこう思うと書くと変なので「私」とカッコ付きにしているのは、いちいち「クミと呼ばれているコレ」とか書くのも面倒なので。。。

もっと簡単にサラッと書こうと思っていたのにやはり回りくどくなってしまうのが残念だけども、がんばってみる^^

この世界を理解したい


そんな思いから始まった、「私」の探求は、物心ついたときからあった。それはここにいることがとっても居心地が悪かったからで、不安で怖かったからで、もっと言えばそれを考えると気が狂いそうになったから、こりゃどうにかしなければと子ども心に感じた。

おねしょをしていたくらいの時期に、「ああ、いつかお母さんが死んでしまう」とお布団の中で毎晩思って泣いていた。そして、「私」もいつかは呼吸が止まっていなくなるのだと息を止めては苦しくなって恐怖した。

なかでも、「ちびクミ」が気が狂いそうに怖かったのは『永遠』←コレです。
ずっとずっと続いていくこの世的なもの、お母さんが死んで、私が死んでその後、地球も死んで、それでも多分続いていくであろう宇宙の内側だか外側だかわからないナニカ=存在みたいなもの。

終わりがないこと、に対する恐れが一番怖かったです。

「で、どうなるの?」「で、その先は?」という子どもっぽいと言えばとても子どもっぽい「なんで、どうして」の誰も答えを知らないクエスチョンが幼い「私」をとらえてしまったのでした。

これは、日常のあらゆる悩みや不安をぶっ飛ばすことができる、それらをどうでもいい些細な出来事に変えるパワーをもっていたからこちら側(=色の世界)を生きるのが楽だったのだと思う。

注:仏教で言われる空(くう)と色(しき)

一体、ここはどこなんだ?


かわいそうな「ちびクミ」はナニカ信じられるものを探しました。そこにつかまってとりあえず安心したかったから。でも、絶対に変わらずにある死なないものがこの世の中には一つもないことになんとなく気がついてしまって、またしても途方に暮れるしかなかったです。

ああ、かわいそう。

常に変化して、流れ続けているようなここは一体どこで、どうやってここで崩れないように立ち続けていればいいのか、小学校に行って体操着に着替えて紅白帽をかぶり校庭を走っても、お友だちとリカちゃん人形で遊んでいてもふと、思い出しては首を振って払いのけるしか方法がなかったことを覚えています。

と言っても、気が狂ってしまうことも、病気になることもなく案外元気に9割型は普通に日常生活を送っていたことも事実です。

高度成長期に関東に生まれた、普通の子どもでした。二つ違いの兄がいてサラリーマンの父と専業主婦の母と4人家族です。

と、「私」の始まりのストーリーはざっとこれでおしまいにして、どうやってこの世界を理解していったのか、できたのか、今現在、探求の旅は終わったのか・・・を、書いていこうと思います。


どうして?

もう少し早く知りたかったな、と、今の「私」は感じるので美味しいお菓子のおすそ分けのようなささやかな気持ちなんだと思います。



<おすそ分け その1>

とにもかくにも、『気づいていること』が大事!




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