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おれはとほまち的人間、おれは定刻的人間にとどまるわけにはいかない。:「ゆる文学ラジオ」を振り返って


ひとつの「とほまち」がうまれるのは
われわれの頭上で
天使が「時」をさえぎるからだ
(田村隆一)


以下の記事は、筆者の出演した『ゆる学徒ハウス』二次選考動画「ゆる文学ラジオ」に関する長い申し開きとなります。今日に限っては、いいわけしていいわけ。

動画内の補足説明については、別の記事にまとめました。


はじめに

話し手(筆者)の声質が聞き取りにくかったり、早口が伝わりづらかったり、堀元さんとの会話のキャッチボールが上手くできていない箇所があったかと存じます。

しかしながら寺山修司は、このようなことを言って吃音症を肯定しています。言葉もまた肉体の一部である。完全な肉体は、人間として失格である。ゆえに不完全な声にこそ美が隠れている。(『家出のすすめ』)

みなさまも何卒、寺山のような逆説家となり、クリアではない不完全な音声を愛してください。


加えて、『ゆる学徒ハウス』参加者のうち最大級の「とほまち」を起こしたことについても、責任を感じております。(※)

お怒りの方がおられるのでしたら、小説家・小島信夫を思い出しましょう。彼はある時、短編小説を書こうと執筆を始めたのですが、筆が進みに進んだおかげで、いつのまにか連載期間十二年間・全6巻に及ぶ超長編『別れる理由』を完成させてしまいました。

小島の大作に比べれば、小一時間の「とほまち」など、ちいかわにしか見えないはずです。


イギリスにあるオックスフォード大学の研究チームによると、「ゆる◯◯学ラジオ」の「ゆる」は、「許」に由来しているそうです。

みなさまも寛恕の心を持って、今回の「”許”文学ラジオ」をご笑覧いただければ幸いでございます。罪のゆるしの青草、です。


※「とほまち」……「こうした予測のすべてが途方もなく間違っていた」の略語。『ゆる言語学ラジオ』界隈においては、台本の見積もりを誤って収録時間を大幅に延長してしまった際によく用いられます。




申し開きⅠ:いざ「とほまち」の方へ

収録直前、堀元さんがこのように尋ねてきました。「出だしはどのように始めますか? 僕がタイトルコールをしてから台本に入ってもいいですし、いきなり台本に入って後から番組名を言うってパターンでもOKです」

第一の「とほまち」が、この時点ですでに始まりつつありました。

筆者は当初、堀元さんにタイトルコールをしてもらうつもりでいました。そしてすぐさま本題に移るつもりでいました。

メインとして取り上げるつもりでいた『ドン・キホーテ』は、近代文学小説の起源の一つであり、話題の宝庫です。この作品について語っているだけで、規定時間の十五分は過ぎるだろうと予想できました。


ですが土壇場になって、ふと別の思いつきが頭によぎります。何の捻りもなく話を切り出したのではつまらない。初手「うんちくエウレーカクイズ」の方が、堀元さんの興味を惹くのではないか?(※)

考えるが早いがiPhoneのメモ帳を開き、選考用の台本とは別に作っていたクイズの一覧を眺めます。すると、次の問題が目に飛び込んできました。

「アリストテレスの『詩学』は、現在にも通用する文学論である。ところが現在では当たり前となっている、あるモノがまったく論じられていない。それは何?」

このクイズの答えは、「小説」です。

たいていの人は、文学と聞けば小説を思い浮かべるでしょう。しかし小説が盛んになったのは、近代以降です。アリストテレスの時代には当然、小説はありませんでした。

19世紀のフランス文学者フローベールは、散文表現は昨日生まれたばかりだと述べています(蓮實重彦『随想』)。成立年代で考えると、詩や戯曲よりもむしろ写真や映画に近しい、まだ新しいメディアが小説だったのです。


……と、上記のうんちくを披露するつもりで作ったクイズでしたが、自分が持ってきた台本に、うまく当てはまることに気づきます。

「小説の歴史は意外と浅い」という布石を冒頭に打ってから、近代小説の祖の話へと移っていく。うん、悪くないんじゃないか。急拵えでありながら、当初の台本よりも話の山場が一つ増えると確信しました。

時間が押すのは目に見えています。ですが「試さないと気がすまないんだ だって思いついちゃったから」と、心のなかのゴン=フリークスが拳を握りしめます。

「好きなタイミングで話し始めていいですよ」と堀元さんが言いました。堀元さんがゲンスルーに見えてきました。覚悟を決め、ラジオ収録が、そして果てしなき「とほまち」の幕が切って落とされました。


※「うんちくエウレーカクイズ」…雑学・うんちくが答えになっている形式のクイズ。解答者はクイズを考える楽しみと知見を広げる楽しみを両方味わえる。一粒で二度おいしい。



申し開きⅡ:花咲く「とほまち」のかげに

高橋源一郎の小説に関する話題は、元々は語りの導入部分で紹介するつもりでした。自分の作った台本の冒頭は、以下の通りです。

「『さようなら、ギャングたち』や『ペンギン村に陽は落ちて』。高橋源一郎によるこれらの作品は、JPOPに漫画アニメ、テレビ業界の固有名詞を過剰に取り入れた、(1980年代当時としては)破格の文学小説だった。

だが、近代文学の祖も、ポップカルチャーを取り入れていたとしたらどうだろう。近代小説の金字塔『ドン・キホーテ』は、当時の大衆の読み物であった騎士道小説のパロディとして生まれたのだ。

今風に言えば、『ドン・キホーテ』はこう要約できる。”なろう系ライトノベルを読み過ぎて頭のおかしくなった初老の男性が、自分もなろう系主人公だと勘違いして各地を暴れ回っている件“

アロンソ・キハーノ(キハーナ)という老人が、騎士道小説を読みすぎて自分も騎士だという妄想に憑りつかれる。そしてドン・キホーテを名乗り始めて、姫を救い出す冒険に飛び出していく。これが『ドン・キホーテ』の大まかなプロットなのだ。ドン・キホーテが風車に挑みかかる有名な場面も、この筋書きの延長にある。

しかし、冒頭に出した「うんちくエウレーカクイズ」から話が脱線した流れで、日本の明治文学(坪内逍遥・二葉亭四迷)の話が浮上してきました。これはまったく予想していなかった展開でした。


軌道修正しなければ。そう思いつつ、台本に戻ろうとしたのですが、ここで第二の「とほまち」の誘惑に駆られます。

『日本文学盛衰史』の話がしたい。

高橋源一郎の著作『日本文学盛衰史』。

未読の状態であれば、いかにも堅そうなタイトルに見えるでしょう。堀元さんが嬉々として、「つまんなそ~!」とリアクションをする様子が目に浮かびます。


ですが、動画内でも話した通り、『日本文学盛衰史』はハチャメチャな作品です。文豪を題材にした真面目な小説かと思いきや、明らかに嘘と分かるエピソードをいけしゃあしゃあと書いたり、著者の高橋自身が劇中に闖入したり、かと思えば真剣な評論に立ち返ったりと、とにかくカオティック。

「同じ高橋の小説でも『日本文学盛衰史』を取り上げるつもりはなかった。だが事実と虚構、真面目と茶番、批評と小説とエッセイが錯綜する本作は、小説という表現形式を考える上で、良いサンプルになるはずだ。また、明治初期の文豪について言及した流れで、『日本文学盛衰史』を取り上げるのは自然な展開だろう。」

そう判断した筆者は、再度「とほまち」の罠にからめとられます。初めに起こった会話の脱線が呼び水となって、さらなる脱線が生じてしまったのです。


驚くべきことに、15分が過ぎた時点で、まだ本題に入れていませんでした。The time is out of joint、時間の関節が外れてしまったと、心のなかのハムハム(ハムレットの愛称)がむせび泣きます。

「……とほまち。すなわち、"The time is out of joint"。この一節は邦訳の『ハムレット』を紐解くと、《この世のタガが外れている》などと、意訳されることが多い。一方でP・K・ディックの小説“Time Out of Joint”は、『時は乱れて』と訳されている。timeをあえて直訳しているのが、SFマインドがあって素敵だと思う。でもそういえば、ヘンリー・ミラー『北回帰線』の邦訳も、件の文を意識した一節が、《時間の間接が外れている》と直訳になっていた。ドゥルーズの『差異と反復』邦訳における引用部分も、《時間はその蝶番から外れてしまった》となっている。「海外作家がシェイクスピアを引いている文章を目にした翻訳者、timeの意訳を避けがち」というピンポイントあるあるが、一個引き出せるのかもしれない」

……と、本筋とはまったく関係のない話題が脳裏によぎりましたが、いよいよ収集がつかなくなるので、踏みとどまりました。



申し開きⅢ:ソドムと「とほまち」

脱線を繰り返しながらも、ようやく本題にたどりつきました。

『ドン・キホーテ』。正式名称『才智あふれる郷士ドン・キホーテ・デ・ラマンチャ前篇』/『才智あふれる騎士ドン・キホーテ・デ・ラマンチャ後編』にまつわる話です。

時間があれば作中のエピソードに詳しく踏み込もうと考えていたのですが、もう時がありません。作品の一番の特徴である、メタフィクション性について紹介するにとどめておきました。


もっとも『ドン・キホーテ』は、メタフィクション性に注目するだけでも十分に興味を惹きます。

ドン・キホーテが大衆向け小説のパロディを演じる「前編」も面白いですが、特筆すべきなのは「後編」。作中においても「前編」の書籍が出版されているという世界観であるため、登場人物の多くがドン・キホーテの珍道中を読んでいるのです。

そのため、ドン・キホーテはちょっとした有名人となり、人々からちょっかいをかけられます。また作中の読者が「前編」の物語を批評したり、誤りを指摘するという事態が発生します。

このような人を食ったような物語が、400年前に書き著されていたことは、驚嘆に値するでしょう。


さて無事に台本に戻り、後はオチに向かって一直線に走っていくだけとなりました。縷縷綿綿としたこの収録も、ようやくゴールが見えてきました。

ところが、これまで散々「とほまち」を続けてきた報いでしょうか。『ドン・キホーテ』後編のなかで一番の山場となる説明を、とちって飛ばしてしまったのです。

気づいたときにはもう遅く、堀元さんとの会話のなかに差し入れる余裕はありませんでした。

筆者はもはや、「とちる」という語から連想した、漱石文学の有名な内輪ネタを、心のなかで叫ぶことしかできませんでした。

トチメンボー!


ちなみに、自分が抜かしてしまったのは、次のような説明です。

「『ドン・キホーテ』はメタフィクション的な試みに満ちた小説である。そして、その山場の一つとして描かれるのは、”贋作『ドン・キホーテ』発売事件”だ。

先にも述べた通り、この作品の「後編」の設定では、『ドン・キホーテ』の「前編」が出版されていた。劇中では、小説が人気になりすぎた結果、アベリャネーダという第三者が勝手に『ドン・キホーテ』の贋作を出版する事態に発展する。

ドン・キホーテはこの出版に腹を立て、アベリャネーダの贋作をさんざんにこき下ろす。さらには贋作の物語を否定するために、自分の旅先を急遽変更する。偽物のドン・キホーテとは異なる冒険の道筋をたどることで、自分こそが本物であると証明しようとしたのだった。

面白いのは、”贋作『ドン・キホーテ』発売事件”が現実にあった事件をモデルにしている点だ。そもそも「後編」のまえがきは、著者セルバンテスが、実際に出版された贋作に激怒するコメントから始まっている。取り繕いながらも、はらわたが煮えくり返っている様子が見て取れて面白い。

だが、別の見方をすれば、アベリャネーダの存在は、『ドン・キホーテ』という作品のレベルを一段階上に押し進めたとも言える。現実に発生した贋作騒動を作中に取り入れたことで、元々の主題であったメタフィクション性が、ますます強調されることになったからだ。

その意味でアベリャネーダと贋作『ドン・キホーテ』は、批判される存在であると同時に、近代文学小説の成立の共犯者でもあった



申し開きⅣ:見出された「とほまち」

動画のオチでは、『ゆる学徒ハウス』という企画そのものを言及しようと考えていました。自分の台本では、次のように話が締めくくられています。

ところで、『ゆる学徒ハウス』という企画は、ドン・キホーテによく似ている。ドン・キホーテは騎士道小説を読み過ぎておかしくなり、自分のことを騎士だと勘違いした。『ゆる学徒ハウス』の出演者は『ゆる言語学ラジオ』を聞きすぎておかしくなり、自分たちのことを水野さんだと勘違いした。そして自分でも「ゆる○○学」を放送してみたいと考え、この発表の現場に立っているのである。

おさらいしておくと、『ドン・キホーテ』は近代文学小説の祖であり、メタジャンル・メタフィクション的な遊びに富んだ作品であった。後続の小説文芸に多大な影響を及ぼしたことも紹介した。

だとすれば、『ドン・キホーテ』に似た『ゆる学徒ハウス』は、実質的に、近代文学小説の祖といっても過言ではないのではないか?


これが過言だとしても、『ゆる学徒ハウス』、また元となる『ゆる言語学ラジオ』というコンテンツが、今回紹介した実験的な小説群のように、インテリとふざけを両立したコンテンツであるのは間違いないように思う。

堀元さんもどこかのインタビューで仰っていたが、残念ながら今の世は、インテリとふざけを両立したコンテンツが多くない。知的なコンテンツとふざけたコンテンツが分離してしまっている。

なれば今回の『ゆる学徒ハウス』は、「小説」的な語り手を増やす試み、いわば文芸復興と呼べるのではないだろうか。
小林秀雄系YouTuber/podcasterの登場に、期待したい。

ただ筆者は先走って、「ゆる言語学ラジオは小説のようなもの」という語り出しで始めてしまいました。そのせいで、オチも上手く通じなかったように思います。無念。


もっとも、筆者の犯した最後の「とほまち」は、このオチの部分ではありません。驚くべきことに、この収録内容全体が「途方もなく間違っていた」のです。

というのも筆者はこの撮影の序盤に、次のような発言をしていたからでした。

……「ゆる戦後文学ラジオ」、始めていきたいと思います。

『ゆる学徒ハウス』の一次選考では、三島由紀夫を取り扱いました。そこで、「ゆる戦後文学ラジオ」と銘打っていました。

一方で今回の二次選考は、より幅広い年代の小説を取り扱っています。一次選考から題名は変えてもいいという話を事前に聞いていたため、「ゆる文学ラジオ」と改題する予定でした。

ところが筆者は、一次選考と同じく「ゆる戦後文学ラジオ」を始めると宣言して、この収録を進めてしまったのです。

その結果、喋っている内容がすべて題名とそぐわないという異常事態が発生します。根本的なミスを、筆者はしでかしました。


とはいえ、この放送は「ゆる◯◯学ラジオ」です。いくら言い間違いをしようとも、詭弁によっていくらでもカバーのしようがあったでしょう。

「小説が連載途中で名前を変更するのは珍しくない。この動画が途中で名前を変えてはいけない理由がどこにあるだろう?」

と開き直っても良かったですし、

「『ドン・キホーテ』の作中では登場人物の名前にしばしば表記揺れがあった。この収録もそれに倣ったのだ」

と『ドン・キホーテ』に託けて締めくくることもできたはずです。(※と思ったら、堀元さんがフォローしてくださっていました。流石!)


しかし、筆者は何も気の利いたことが言えませんでした。思い返せば、最後に限らず、筆者は何度も堀元さんからの面白い切り口の返しを見逃してしまっていました。

言いたいことは発信できるが、交信ができない、この致命的な不具合。対話形式の収録として、とてもよろしくない筆者のだんまり。


落ち着いた今でなら、「この沈黙はサミュエル・ベケットがノーベル文学賞を受賞した時の”無言スピーチ”のパロディなのです」と教養(インテリ)詭弁で返すことができます。

そしてベケット晩年の作品『いざ最悪への方へ』を引用しつつ、自らの過ちを誤魔化せたでしょう。すなわち、「次はもっと沈黙してみせます、もっと放送事故を起こしてやります。もっと上手く失敗しよう、そうベケットも言っているわけですから」と……。

しかし、終わってみてから思いついたところでポスト・フェストゥム(後の祭り)、やんぬるかな、なのです。




この記事もまた、「とほまち」してしまった


漱石枕流に興じたあまり、文章量量がかなり嵩んでしまいました。「とほまち」に関する言い訳が、「とほまち」してしまったわけです。「とほまち」の入れ子構造、ここに極まれり。


お気づきの方も多いでしょうが、筆者は『ゆる学徒ハウス』二次選考で落選しました。

最終選考に進めなかったのは少し残念ではありますが、自分の不甲斐なさを振り返り、他の選考通過者の巧みさを見れば納得感しかありません。


それに、筆者はただ恥をさらしただけではありません。堀元さんとおしゃべりできた時間は楽しかったですし、何よりも他の『ゆる学徒ハウス』応募者の方々と知り合うことができたのが、一番の収穫でした。感謝いたします。


動画の収録最中、ずっと「とほまち」を繰り返してきました。お目汚しがあったのであれば失礼します。ですが、『ゆる学徒ハウス』という企画に応募したことだけは間違っていなかった、と胸を張りたいと思います。

終わりよければすべてよし。ただし、筆者にとっての「終わり」は収録のなかにはなく、収録を終えて、しばらく後になってやってきたのでした。

……そんなわけで、私の幻燈はこれでおしまいであります。どっとはらい。




サムネイル画像:ゴールドドンペンくん
(ドン.キホーテ公式サイトより)
https://www.donki.com/official-character/manyDonpen.php


後日譚:『ゆる学徒ハウス』の最終選考に進んだら披露しようと思っていた話の一部を清書して、noteに書き始めました。よかったら。


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