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世界はアナルファックで出来ている。:バタイユ『太陽肛門』【#4】

世界が純粋にパロディであるのは明白なことだ。つまり人が目にする事物はどれも他の事物のパロディなのである。そうでない場合、事物はそのままであって、その姿にはがっかりさせられる。

思想家ジョルジュ・バタイユは、『太陽肛門』のなかで、世界が「ピストン運動」によって成り立っているという奇妙な持論を展開した。すなわち、あらゆる自然現象が、「セックス」のパロディであると指摘したのだった。

たとえば、草木が上に伸びるのは、太陽との性交を欲しているからだという。太陽は一つの大きな肛門であり、植物は勃起してそれを貫こうとしている。大地には無数の緑黄色チンポが生えており、天体とのアナルファックを求めている。

海水が蒸発して雲となり、やがて雨となって降り注ぐのもそうだ。天と地を行き来する水の上下運動は、男性器を出し入れするさまに等しい。火山の噴火は地球自身によるオナニーであり、地球は溶岩を射精する際に身を揺すぶることで、地上のあらゆる建造物を倒壊させる。

星の巡りも、生と死も、限りなく巨大な視座に立ってみれば、二点の間を往復するピストン運動である。すなわちセックスにほかならない。あるいは、動物のセックスこそが、自然現象や惑星軌道の卑小な再現であったのかもしれない。

冒頭の引用文は、そんな『太陽肛門』の冒頭に掲げられた一節である。あらゆる物事は、性のパロディである。そして、パロディという概念自体もまた、本物のイメージをその模倣品と結び付け、両者を見比べることによって成立するのだから、観念同士のピストン運動、セックスの延長として捉えられるのだろう。


あなたは、バタイユのこの詩にどのような印象を受けただろうか。その通りだ、と納得しただろうか。それとも、狂っていると嫌悪しただろうか。

バタイユの友人は、後者だった。『太陽肛門』を一読した友人は精神治療を勧め、実際にバタイユは一年に渡って通院することになる。バタイユ自身もまた、当時は「病的な人間」だったと晩年になって振り返っている。

安定しているとは言いがたい精神状態で幻視したビジョンが、『太陽肛門』の世界であった。内容だけでなく、執筆背景においても曰くつきなのが本作であった。

しかし、譫妄状態のうわ言と切り捨てるのには勿体ない、強靭なイメージの喚起力が、この詩には秘められている。少なくとも、僕は『太陽肛門』の文章が好きだ。「こうもんであそんではいけません」というフレーズが古のインターネットでは伝わっているが、『太陽肛門』ともっと遊んでみたいと思う。戯れていたいと思う。玩具を捩じ込んでみたいと思う。


「太陽肛門」の終盤では、「太陽の光輪は、一八歳の彼女の肉体の無垢な肛門なのだ」と綴られる。

太陽の光輪は、一八歳の彼女の肉体の無垢な肛門なのだ。この肛門と同じほど人を盲いさせ、この肛門に匹敵しうるものは、太陽以外にない。

太陽を「十八歳の」「彼女の」「無垢な」肛門と言い切ってしまうのは、バタイユにとっては断腸の思いであった。というのもバタイユは、太陽に憧れ、自分自身の尻の穴を日輪に見立てようとしていたからだ。

それは、「私は太陽である」という冒頭部分の宣言から明らかだ。バタイユは紙幅を尽くして、己の肛門を「太陽の汚れたパロディ」として見なそうとしている。

だが、そんな願いも空しく、詩人の菊門が太陽の光を発することはなかった。バタイユは観念し、自身の内側へと繋がる穴を、「夜」ととらえる。そして、「お前は夜だ」と言い渡してくれる娘、すなわち太陽のような無垢な肛門を持つ女性とのセックスを夢想するのだが、「夜」は原理的に太陽と出会うことができない。バタイユは虚しいまま、まだ見ぬ太陽に似た肛門、あるいは肛門に似た太陽を探し求めつつ、筆を置く。

バタイユは変態だった。病的だった。しかし、ポルノと呼ぶには観念的すぎた。いや、『太陽肛門』の文脈から考えれば、近しい観念同士を接合させる行いこそがセックスなのである。人体同士の合体を描いたエロ本より、よほど性的であると言えるのかもしれない。

バタイユにとって自然現象とエロは等価的だった。『太陽肛門』のリード文として記された文章には、そのことが直接的に描かれている。

太陽が男根の亀頭のように虹色で、えげつなく、亀頭の尿道口のようにぱっくり口を開け、尿を放出しているのを見る(―真夏に、自分自身汗まみれの真っ赤な顔をして)[……]じっさい自然は、エロ本屋の店頭で人目をひきつける美人の女調教師にように色気をふりまきながら、何度も鞭をふるって人々に応えている。

ここでは太陽を男根と見なし、陽に焼けて真っ赤になった顔を亀頭になぞらえたうえで、自然現象とポルノグラフィーを同一視している。自然は卑猥であり、卑猥こそが自然のパロディーであるとバタイユは看破する。

これを読むあなたが、この病的な妄想にどれだけ真摯に向かい合うかは分からない。だが、バタイユに憑かれた筆者が、頭上に燦然と輝く太陽から一個のアナルを幻視する呪いにかけられたことは、書き添えておいてもいいだろう。


これを書いているのは、2025年1月1日。元日である。新年早々こんな話題もどうかと思った。だが、「初日の出」から「一八歳の彼女の肉体の無垢な肛門」を連想してしまったのだから、仕方がない。

僕たちは昨年、閏年だったので366日もの間、使い古されたアナルの光を浴びてきた。それがリセットされたのが、今日この日だ。

僕たちは東から昇ってきた無垢な肛門を有難がって拝んでいる。その光は期待に満ちていて、眩しく、どこか心洗われる。

僕たちは親戚と挨拶したり、新年の抱負などを語り合う。亀頭のように赤く、顔を火照らせながら。



G・バタイユ『太陽肛門』(酒井健訳、景文社書店、2018)

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