2020.6.11.THU イモちゃんがアゲハになった話
夕方帰宅すると息子が汗だくの制服姿のままリビングで立ち尽くしていて、「ゲハちゃんが!ゲハちゃんが!」と指差した。
飼っていたサナギが羽化して蝶になっていた。
◎
五月のある日、実家にある山椒の木の枝を切ってもらって帰ってきた。コップにいけておくとけっこう長持ちするので、少しずつちぎっては香りを楽しんでいた。
数日経ってふと見ると、コップの周りに小さい黒い点々がたくさん落ちている。虫の糞だ!慌てて探すといたいた。黒白の小さいイモ虫が。つまんで捨てようとしたけど「この子も赤ちゃんなんだよな」。きっとアゲハ蝶の子だよね。ちょっと成長した姿が見たくなった。
この黒白模様は鳥の糞に擬態してるんだって。なるほどそんな感じだね。
5/21、山椒の枝ごとダンボールに入れてリビングの片隅に置く。
ちっちゃいのにすごいペースでめっちゃ食べる。
5/23 気がついたら綺麗な緑色の青虫になっていた!
黒い皮を脱ぎ捨てたところ。変身したねー!
名前をつけようということになり、息子は「ゲハちゃん」と名付け、わたしは「イモちゃん」と呼んだ。
5/25 めっちゃ食べる。もりもり食べる。かわいい顔で食べる。
と思ったらこのでっかいげじげじ眉毛と目玉は体の模様なんだって。
食べてるところをじっと見ていると、山椒のいい香りがする。
5/28 食欲が止まらない。実家にわざわざ山椒の枝を切りにいく。
葉っぱだけでなくけっこう太い軸もバリバリ食べる。でかくなった。
リビングでなにげなく過ごしている時、イモちゃんのダンボールから
「 パタ 」っと音がすると家族が顔を見合わせた。イモちゃんの糞が下の紙に落ちる音なのだ。食べてる食べてる。出してる出してる。
オットと、あいつも窓辺でこんなふうにしてたよね、と息子がかつてよちよちだったころのことをしみじみ思い出していた。
そして、山椒の枝からどこにも行こうとせず、モシャモシャ食って寝てばかりいるイモちゃんが、ステイホーム中の高校生と重なって見えて余計愛しくなった。たんとお食べ・・・それしかないもんね・・・
アゲハの幼虫をつつくと黄色い臭いツノを出すという。その匂いを嗅いでみたくてイモちゃんをつついてみたけど、「やーめーてーよー」と身をクネらせるだけでツノを出さない。おっとりしてる。
「危機を知らずに育ってるよね」と息子。おまえもな。
5/31 「新生音楽 シンライブ」のライブ配信を聴きながら息子と夕食のカレーライスを食べていた。
カレーの皿を片付け終わってカーテンを閉めにいき、窓際のダンボールをのぞくとイモちゃんがいない。
イモちゃんがいない!
この日の昼、ころころの粒状のフンが突然どっと水様便になった。
イモちゃんどうしたの!?病気なの!?
「アゲハ 幼虫 下痢」で息子がググると
「もうすぐサナギになるらしいよ」へぇー・・・いよいよか・・・
などと思っていたらイモちゃんがダンボールの箱の中にいない。
山椒の枝からけっして動こうとしなかったのに、脱出していない。
あわてて探すと離れた床でイモイモしていた。
サナギになるための場所を探してるんだ。
枝を入れてやったけど気に入らないのかまた脱出。こんな狭い世界におさまってられるかよ。
イモイモイモイモイモイモイモイモ・・・・・
高速イモイモが止まらない。目が離せない。すごい勢いで爆走するイモちゃん。どこまで行くの・・・
折しもLITEというアーティストによるリアルタイムリモートセッションが始まった。別々の場所にいる音楽家たちが今、それぞれの場所で奏でて疾走する音楽をBGMに突っ走るイモちゃんをただ驚愕しながら息子と見ていた。
まるで、大人になる前のやり場のないエネルギーの爆発を見ているようだった。
爆走の末、電気コードの上でピタ と止まった。「そこ!?そこなの!?」
小枝に強制収容してダンボールに戻した。
その時、にゅーっと黄色いツノを出して抵抗したのだ。その臭いたるや!
山椒の青臭い感じだと思っていたが全然違った。ほんとにイヤな、エチレンというか、化学物質だぜ!という臭さだった。鳥も嫌がるよね・・・
水切りネットを被せて出られないようにした。ごめんね、イモちゃん。
イモちゃんはダンボールの中をしばらくイモイモしていたが、しばらくして山椒の枝に止まって動かなくなった。
翌朝。イモちゃんはちっちゃく体を縮めた形で糸をかけていた。
ちょっと触ると、ぷるぷるぷるぷる!と震えるように動いた。
さらに翌朝。かっこいいサナギに変身していた。
イモちゃんの名残りを脱ぎ捨てたかさぶたが落ちていた。
当たり前だが、もう山椒を食べない。
もう動かない。
通りがかるたびにダンボールをのぞく癖がついたが、動かない。
ちゃんと羽化するのかな。心なしかサナギが色あせたような気がした。
羽化せずこのまま死んでしまうサナギもあるという。
6/11 朝。あっ!見て見て!イモちゃんが!
うっすら蝶の羽の模様みたいなのが透けて見えるよ!
いよいよなのかなぁ。いつなんだろうね、といいながら各自登校し出勤していった。
そして、その日の夕方、帰宅した息子がカーテンにとまって羽ばたいている、立派な蝶になったゲハちゃんを見つけたのだった。
「どうしよう」「どうしようか」
日が暮れて電気をつけると、イモちゃんはその明かりの周りをぐるぐる飛んでしまう。電気を消したり、飛んでいくイモちゃんの行方を追いかけながら見守った。
晩ごはんを作るときには、台所を布で仕切って入ってこないようにした。飛んで火にいる夏の虫になってはいけないからだ。
最後は真っ暗な息子の部屋で、携帯のあかりで眺めた。
オットが帰宅して「うわあ!綺麗!オスなの、メスなの?」
息子がググって調べると、羽が黄色っぽく腹が太いのでどうやらメスではないか、ということになった。
「妹だね。」「え?・・・」
このまま室内を飛んで羽を痛めるより、夜のうちに外に出した方がいいだろうという結論に至った。鳥も夜はこないだろうし。
そっと30cmものさしにとまらせて、ベランダに出した。
夜の闇に、ふっと飛んで消えていった。
娘が巣立ったみたいに悲しくなった。
幸せになってね。鳥とかに食べられるんじゃないよ。
親から教えてもらったわけでもないのに、勝手にひとりで成長していって、すごい命のプログラミングだ。
あのイモちゃんが、サナギの殻の中でどうやってどうなって、あんな複雑な蝶になるのか。圧倒的な謎で、圧倒的に美しかった。
うちの高校生のイモちゃんも、やがて爆走して飛び出していくのだろうか。
じっと沈黙するサナギになったり、大人の蝶になったりするのだろうか。
そうだとして、親にしてやれることはもうほとんどなくて、絶え間なく食べさせることだけなんだなと思った。この一食を、いっしょに食べるこの時間を、今楽しんで覚えておきたいと思った。