2020.9.13sun 安売りではなく耕すと思いたい
昨日はさしものかぐたかはしさんとこで出張雲間喫茶の日。
事前に募集したお茶教室「日本茶の美味しい淹れ方」にご応募はなく、したがって滞在時間ずっとオールタイム雲間喫茶となった。
終日、たくさんの方がいらしてくださって、たかはしさんとこの座り心地の良い椅子に沈み込んでは
「はー・・・・おいしい・・・」
といろんなお茶をしみじみ楽しんでいただいた。
大変ゆるやかに、幸せで、いい空気が流れていた。
「なんならお茶の淹れ方レクチャーします」
とインスタに書いていたものだから、
煎茶の淹れ方に興味津々の方もいらして、しっかり質問したり感心したりしてくださった。「ずっと聞いてみたかったのよ!」
お茶も買って帰ってくれた。
ご自宅で淹れてみてくださいね!
と笑顔でお見送りし、充実した時間だった。
が
(だったら、お茶教室にきてくれたらいいのに・・・)
と思わなくもない。
お茶教室のレッスン料4000円は高い、喫茶料金700円で聞けたらラッキーだ、とか思われたんだろうか
いつも「お茶の葉っぱに湯を注げばお茶なんて入ります」とか言ってる人間のレッスンになんて金払えるかと思われたんだろうか
などとさみしい思いが帰りの車の中で込み上げてきた。
お茶一杯●●円
煎茶ひと袋●●円
じゃあ「美味しくお茶を淹れられるようにアドバイスする料金」
はいくらなんだろう?
かつてクリエイティブディレクターという名刺を持っていた頃
企画とかアイデアとか雲をつかむような形のないものに値段をつけて売っていた。
そういう仕事だった。
「なんでこんなにいいのに伝わらないんだろう、もったいない」と思ったからやった。あなたには思いつかないアイデアがわたしにはある。だからお金を払ってもらえた。
そのうち「なんでこんなにつまんないものを立派そうに見せないといけないんだろう」に嫌気がさしてやめた。
そういう仕事をしていたんなら、もっと上手に自分の
「なんでこんなにいいのに伝わらないんだろう」を高く売れるようにしたらいいじゃないか。
なんでそれができないんだろう。
できないんだよね。
自分なんてほら、という謙遜とか卑下とか偉そうにしてるの嫌だとか
そういうコンプレックスが邪魔して
「美味しいお茶を楽しんで淹れてほしい」というちゃんとした思いをごまかしちゃう。ふざけちゃう。
すごく素敵な茶席で、素晴らしい茶器や室礼で、流れるようにお茶を淹れて、茶席の人々をうっとりさせるようなお茶会やお茶教室に憧れがある。
参加料高いのに席が埋まることに若干の嫉妬すらある。
と同時に、お茶を淹れる人がうっとり憧れの対象になることに強い抵抗がある。そこには崇拝と信仰があって、ともすればやさしく美しい暴力なんではないか?と思うからだ。
お茶があなたを救うことがあったとしても
お茶を淹れる人があなたを救うことはない
わたしみたいな、たいしたことない者でも淹れられる
お茶はすごいんです、お湯を注ぐとほら!これ!すごいでしょ!
褒めてほしいのはお茶なんだ。
本当のことをいうと自分も褒められたいけど、やっぱりどう考えてもすごいのはお茶。かなわない。
お茶会やお茶教室では、きてくださった人に楽しんでもらいたい。
お茶はほんとにいいねと思ってほしい。
これなら自分でできそうだと思ってほしい
あ
これだ
「私の技術がすごいからわたしの茶道具が美しいから素敵なんであって、あなたにはないものです、できないことでしょ?だからお金を払いなさい」
という構図がいやなんだ。(つまり対価を受け取ることに申し訳なさがある、という病理が見える 商売向いてない)
あなたにもできる。
お茶を淹れて香りにうっとりして味にくらくらしたら、確実に人生のさみしい部分がちょっと埋められる。
だからその手段の一つとして獲得してほしい。
その手伝いならできる。
そこに昨日は「レッスン料」が発生しなかった。
差額はタダ働きということになるけど、
お茶を買って帰った人は自宅できっと思い出しながらお茶を淹れてみるだろう。うちで売ってるお茶ならどう淹れたってうまいから、はー・・・美味しい・・・という至福の時間を味わっているはずだ。
きっと自分を自力で幸せにするスキルがちょっとアップしたはずだ。
そしてまたお茶買って淹れようと思ってくれたら。
荒野に鍬を入れたんだ。
石に弾かれる鍬を、一度や二度振っただけで耕しただとか、農の人に笑われる。もっと強くなりたい。