自慰と狂気
1.
17年前になるだろうか。今よりもっともっとオンボロなアパートに住んでいた頃、僕は私鉄K駅前にあったコンビニの中で雑誌を買おうとして雑誌コーナーにいた。すると小学生だと思うが雑誌コーナーにじっと蹲っていた。驚いた。「病気なのか?ならば救急車を呼ばなくちゃ・・・」と思って、少年に近づいて、よく見ると、半ズボンを膝まで下ろした状態で右手が動いている。すぐに状況が飲み込めた。成人雑誌を見ながら自慰行為をしているのだ。
吐き気を催した。自分だって同じ事はする。しかし、人前でやったことはない。当たり前だ。恥ずかしいどころじゃない、人に見せるものじゃない。やるなら密室でお願いしたい。それよりも彼は小学生だ。何故にあれほどまでに強い性欲が彼を人前での自慰行為に駆り立ててしまったのか? いろいろな感情が入り交じって気持ちが悪くなった。僕は彼に注意もできずにコンビニの外に出た。
しかし、何故、コンビニの店内で自慰行為をしていたのか? 小学生なのだから変態的な心理ではなく、お金がなくて、あるいは成人雑誌をレジに持って行けない・・・いや、やっぱり子どもの変態なのかもしれない。
その少年はその後どうしたのか? 自慰コンビニもなくなって、駅前はすっかり変ってしまった。あのまま色欲ばかりが異常成長して犯罪に手を染めてしまったのだろうか?
2.
昨日は都内から仕事の打ち合わせを終えて帰宅する途中の乗換駅SK駅(K駅の隣である)で、かみさんと待ち合わせて下車して大きなスーパーに入った。
「フードコートのペッパーランチがなくなるの。お店の人と仲良くなったから、最後に食べようと思って」と言うかみさんのリクエストに応じたのだ。
フードコートは、全席にアクリル板を取り付けた今時の格好で、今までの感覚から見れば何だか「刑務所的」である。日曜なのに人は少ない。特にコロナ禍だからではない。日曜の夕方はお客が少ないのだ。
それから周囲に空きがある席に座って、かみさんが注文しに行った。調理済みブザーを持ってかみさんが帰ってきた。
席に着くと「オネエさんは奥にいて話ができなかったよ」とふくれっ面をしてから鞄から除菌シートを取り出して手を拭き始めた。
そのうちに黒い男物の学生服を羽織って短パンという奇妙な格好をした女子高生と思われる女の子2人が僕たちの隣をひとつ空けた席に座った。男物の学生服から足がむき出しになっている。ぱっと見はミニスカートのようだ。
「まぁた・・・子どもの足なんか見てるんじゃないよ」かみさんに注意された。
「勘違いするなよ、あの子たちがコスプレなら何のコスプレなのか、思いをめぐらせて・・・」
「思いをめぐらせるなんて気持ちの悪い表現するんじゃないよ、変態っ」
「はいはい、わかりました」
しばらくしてブザーが鳴ったので僕がふたり分の調理品を2回にわけて取りに行った。鉄板の上には薄切りの肉と味が付いたご飯が、ジュウジュウと煙を上げながら熱された鉄板の余熱で焼かれている。
かみさんに「ほれ、急いでかき混ぜないと肉が生焼けになっちゃうぞ」と言ってスプーンでかき混ぜさせる。
「そうそう」
「うるさいわね」
気をつかっているつもりが逆ギレされた。
調理品を持って戻る途中で気がついた。僕たちと女子高生の間の空席にひとりの男が座っている。年齢は20代のようだが若さがない。髪の毛は、たまに床屋に行って短めに切ってもらったのが伸びた感じだ。油っぽい皮膚の顔。メガネをかけている。服装は田舎っぽい柄のポロシャツ。ヨレた木綿のチノパンを穿いている。色はベージュだ。それらを合わせて分析した結果は「ロリコン・ヲタク」だ。
男は、やや斜めに傾いて座っている。膝の上にはA4ほどの大きさの紙袋に入った雑誌が載っている。何だか怪しい。
「熱い熱い、けど、美味い美味い」と言いながら鉄板の上の肉とご飯を混ぜ込んだ熱々の焼肉ライスを頬張りながらロリコンヲタク男の様子を見る。すると・・・。蠢いている。
動いている。明らかに膝の上の雑誌で隠された部分に右手が突っ込まれて、その手がモゾモゾと蠢いているのだ。衝撃だった。17年前で見たコンビニの自慰少年の記憶が蘇った。そのロリコンヲタク男は、学生服女子高生を見ながらオナニーをしているのだった。
明らかに自慰行為のネタにされている学生服女子高生のふたりは、それに気づかずに楽しそうに並んで笑っている。広いフードコートで、たくさんの人が食事をしているそのど真ん中で、ひとりの男が自慰行為をするという異常さに気分が悪くなった。
かみさんは、隣の席で行なわれている異常事態にに気づかずにバクバクと焼肉ライスを食べている。真面目なかみさんが知ったら男に詰め寄って「あんた、何をしているのっ!」と大声で叫びそうだ。とりあえずはそれだけは避けたい。
異常だ。これは痴漢か? それとも公然わいせつ罪に該当するだろうか? 大事な部分は雑誌で覆い隠されている・・・どうすればいいんだろう? 女子高生に伝えるとする→大騒ぎになる。オリコンヲタクに注意する→大騒ぎになる・・・悩んだ挙げ句にスーパーの警備員を呼ぶことにした。立ち上がって周囲をキョロキョロと見回す。警備員の姿は見えない。
「どうしたの?」かみさんがキョトンとした顔で僕を見る。
「ちょっと待ってて」と言って歩いて警備員を探す。いない。どうしよう?席に戻るとロリコンヲタク男の姿が消えた。どこに行ったのか?学生服女子高生は何にも気づかずにケラケラ笑っている。かみさんが心配そうに僕を見ている。
男の姿が見えた。10メートルほど離れたところでズボンを整えている。「やっぱりやってたな」確信した。その後方から警備員ではないが制服を着たスーパーの社員が歩いてきた。そしてロリコンヲタク男を一瞥した。「捕まえるのか?」通り過ぎた。それはそうだ。現行犯ではないから捕まえることはできないだろう。男の姿が見えなくなった。逃げた。スーパーの社員がやって来たのはロリコンヲタク男の自慰行為を僕以外の人が目撃して伝えたのかもしれない。
諦めて席に戻る。かみさんが「トイレなら向こうだよ」と指を指す。気が抜けた。諦めた。学生服女子高生は明らかに被害者だが、気づいていないのだ。それにしても何もできなかった自分が情けない。
「あ・・・」ある事を想起して背筋が凍った。
「もしかしたら、あの男は17年前のコンビニ自慰小学生かもしれない」
3.
「ギャアアアアアアアアアアアアアッ!!!」叫び声がスーパーの玩具売り場にこだました。先ほどの男の事を忘れようとしてかみさんとスーパーの中を歩いているとその声が聞こえた。
「人殺し?」
「まさか・・・」
しばらくすると、8歳くらいの少年が売り場の床に転がっているのが見えた。側に祖母らしき女性が少年を抱き起こそうとしている。少年が泣き叫んでいるのだ。
「ギャアアアアアアアアアアアアアアッ!!!」もう叫び声ではない。尋常ではない“狂気の音”となって、スーパーの広い売り場の中を駆け巡った。
「玩具を買って貰えないから駄々をこねているのね」かみさんが言った。
そういえば自分も父親に対して同じようなことをしたことがある。少年と同じような頃に何度も玩具売り場の床に寝転がって駄々をこねた。あれは、この少年のような異常な行動だったのか? 周囲にこのような不快な思いをさせていたのだろうか?と、自分の小学生時代を恥じた。
「行こう」かみさんの手を引っ張ってエスカレーターで階下に降りた。先ほど食事中に起きたことを話しながら階下の食品売り場を歩いた。
「ええ、そんなことあったの?何で捕まえないのよっ!」かみさんが怒った。(あのとき、かみさんに伝えなくて本当に良かった)と改めて思った。正義感が強いのは我が国の政治家たちよりはマシだが、何をするかわからないところが怖い。
「で、何処に行ったの、そいつ」
「逃げたよ。ほらスーパーの中を見ても、あいつの姿はない」と言っても、食事に夢中であの男の姿を見ていないかみさんにはわからない。
そのとき「ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!」という、あの少年の叫び声が近づいてきた。階下に降りても床に転がって駄々をこねている。
「ああ、気が狂いそうだ。帰ろう」とかみさんの手を引っ張ってスーパーを出た。先ほどまで晴れていたのに雨が降っている。傘を持っていない僕たちは小走りで駅に向った。