私版 釣魚大全「父」
父を誘って車で30分ほどの相模川まで釣りに出かけた。最初は渋っていた父も車に乗せると「お前とふたりで出かけるのは久しぶりだな」と僕を見て笑った。父はパーキンソン病と診断されて、すっかり元気がなくなり、1日中ボンヤリと家で過ごすばかりになった。
その様子を見た僕が「パーキンソン病じゃなくて、認知症なんじゃないかな?」と言うと妹は口を尖らせて「何言ってんの、違うわよ」と怒った。僕はパーキンソン病でも認知症でもどちらでもいいけれど、父に少し元気になってほしかった。
大和市から座間市を抜けて相模川に架かる座架依橋を渡って川に沿った土手の上の道を北上する。
「お前、相変わらず運転は乱暴だな」助手席に座る父が窓の外を見ながら呟いた。
「そうかな? じゃスピードを落とすよ」
「うん。気をつけろよ」
「うん」
休日だが交通量の少ない道なので渋滞せずに目的地の磯部の堰までスムーズに走ることができた。
磯部の堰というのは相模川の中流域にある取水堰で、川の水を灌漑用水とするための施設だ。堰の周辺は大きな池のように水が貯えられており、ヘラブナ釣り師や雑魚釣りの子どもたちで賑わう。対岸には支流の鳩川の水を調整する三段の滝がある。
僕たちは三段の堰の対岸で釣りをすることにして、土手脇の駐車できるスペースに車を停めて釣り竿を用意した。父には餌釣りの4.5メートルの竿を渡して、僕はバス釣りをするつもりでベイトロッドにABU1500Cというベイトリールを着けた。実は、この時、ベイトリールの使い方を全く知らずに購入したので、ルアーを投げるとルアーは目の前にボチャンと落ち、リールに巻かれた糸がグシャグシャにこんがらがってしまう。糸の絡まりをほどきながら、投げ続けるが、何度投げても同じで、それを見ていた父は呆れて、
「もうやめろ。何度やっても投げられないじゃないか」
「へへへ。使い方がわからないんだよ」
「ったく…そんなリール買うからだ」
「こん次は投げられるようになってるから…」
「ふん」
釣りをしている父の姿を久しぶりに見た。あれは僕が小学校4年生くらいのことだったと思う。当時は秋田市に住んでいて、父は毎週末になると、会社の社員たちと八郎潟の八郎湖までボート釣りに出かけることが多かった。
八郎潟は、かつて220キロ平方メートルの面積を誇り、我が国の湖沼では、琵琶湖に次ぐ第2位の面積があったが、大部分の水域は僕が生まれた年と同じ昭和32年(1957)からの干拓工事によって埋め立てられた。その埋め立てられた陸地部分が大潟村となったが、干拓の残存湖は「八郎湖」と呼ばれる。干拓前は汽水域だった湖水は徐々に淡水化が進んでいるようだ。
昭和42年(1967)当時は、まだ汽水度(そういう言葉があるだろうか)が高かったのではないかと思う。父はカレイやアジなどを持ち帰ってきたのを覚えている。
父はたった1度だけ僕と妹を連れて行ってくれたことがある。僕と妹は「魚のアタリが出るまで長時間待たなくてはならない釣り」が嫌いだった。おまけによく知らない父の会社の社員たちと話すことも嫌だった。僕と妹は父たちが車に戻るまで、埋め立てられた干拓地に茂る葦のヤブの中を駆け回って遊んだ。あれは春先だったのだろうか? 僕と妹の遙か上でヒバリが鳴いているのをふたりで見上げた記憶がある。今でも近所でヒバリが鳴いているのを見ると、八郎潟のヒバリを思い出すのだ。
父が釣り糸を垂れている姿を見て、涙が出そうになった。
「父ちゃんはどうだい。魚のアタリはあったかい?」
「ダメだな。ここは連れないんじゃないか」
「もうしばらく釣ってみてよ。オレも餌釣りに変えるよ」
車に釣り竿を取りに行こうとすると、父は僕の腕を掴んで、
「もういい。帰ろう」と言った。
「来たばかりじゃないか?」
「もういいんだよ。ほら竿を片付けてくれ」と言うと、ヨタヨタと立ち上がって、車の方に歩いて行く。
「なんだよ。待ってよ。ったく釣り竿くらい片付けて行けよ。その道は交通量が多くて危ないから、そこで待ってて」
「大丈夫だよ」あっという間に道を渡って車のそばに着くと、僕を見て「早く来い」と手招きしている。
釣り竿を片付けて、左手に束ねた釣り竿、右手にルアーケースを持って、父が待っている車のそばまで走って行く。
「いくぞ」父が笑っている。
「小倉橋までドライブして帰ろうか?」
「いいから早く帰ろう」助手席に座った父は、いつもの呆けた表情に戻っている。
「何で、そんなに早く帰りたいのさ」
父は黙っている。車が走り出すときに「もう疲れたのさ」と言ったような気がした。
父は、それからしばらくして死んだ。