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災害の多様性「死刑と冤罪」2

「ウィリアム・A・ウェルマン 牛泥棒」


冤罪の続きです。

アメリカの古い西部劇映画に「牛泥棒」という作品があります。1943年の作品ですから1957年生まれの僕はリアルタイムで観ることはできませんでしたし、知りませんでしたが、最近になってNHKの衛星放送で観ることができました。観たあとには、大げさではなく、救いようのない結末にしばらく思考が停止してしまいました。

アメリカの西部劇映画は、日本の時代劇同様に考えずに楽しんで観られる娯楽作品がほとんどだと思っていました(もちろん西部劇にも時代劇にも社会派作品が数多くあるのは承知しています)ので、この作品には驚きでした。

前回に触れたイラン映画の「白い牛のバラッド」と同じく冤罪事件を描いた名作です。しかし、この作品は法的な冤罪事件ではなく、少ない情報に惑わされた自警団による私刑事件を描いています。主演はヘンリー・フォンダ(イージー・ライダーで有名なピーター・フォンダの父です)ですが、主演としての役割は地味で、最後に手紙を読み上げるところで主演らしさを見せるという奇妙な役回りです。

1885年、アメリカのネバダ州の街で牛泥棒事件が起き、牛が盗まれただけでなく牧場主が殺されるという情報が街中にもたらされます。それを聞いた市民たちは怒ります。さっそく自警団を組んで、犯人探しをするのです。町外れで牛を連れて野宿している男たち3人(マーティン、フアン、アルヴァ)を見つけて、牛泥棒の犯人であると決めつけてしまいます。

3人は「自分たちは牛を正式に買って自分たちの牧場まで運んでいるのだ」と弁明しますが、自警団は信じません。法的な手続きを経て裁判にかけるべきです。自警団のなかにもそう主張する人間はいます。しかし、多数決に押し切られて自警団はこの3人を絞首刑にしてしまいます。絞首刑の前にマーティンは、自警団のディビスに手紙を預けていました。

絞首刑を終えて街に帰ろうとしたときに保安官がやって来て、「牧場主が死んでいないことと、犯人が捕まったこと」を自警団たちに伝えます。自分たちが罪のない3人を殺してしまったショックで呆然としているところで、カーターが、ディビスが預かったマーティンの手紙を読み上げます。

そこには自分たちを処刑する自警団たちを批難する言葉はなく、人としての良心の尊さについて書かれていました。

自警団による私刑は、我が国にもありました。冤罪事件が多かったであろう江戸時代の話ではありません。大正12年に起きた関東大震災時のことです。これは以前も書きましたので下記の記事をご参照下さい。

関東大震災直後に横浜から流布された「朝鮮人と共産主義者が叛乱を起す」という流言は、あっという間に関東一円に広がって、各地で結成された自警団によって、多くの朝鮮人労働者や共産主義者たちが虐殺されました。なかには朝鮮人と間違われて殺害された一般市民もいました。これらは冤罪という一言では済まされない、人間による非人間的な残虐行為です。

自警団の判断によって多くの人が殺されてしまうことは数多くあります。今でも、情報伝達が発達していない国々だけでなく、意味のない戦争を始めて多くの市民を虐殺している大国も存在しています。その大国だけでなく、国際的に保守的な政治家に先導されて物騒な時代に突入しようとしているように思えます。我々は何者にも洗脳、先導されることなく意味のない争いを避けるべきです。戦争も、自警団による虐殺も人間による大きな災害なのですから。

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