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妄想邪馬台国「出雲に神の国あり7」

「武烈天皇ってのは応神天皇のふたつの血筋のうち、応神の子である仁徳天皇からの最後の血筋だね」
「ふたつの血筋?」
「ひとつは応神ー仁徳ー履中ー反正ー允恭ー安康ー雄略ー清寧に続き、もうひとつは履中から飯豊青皇女(飯豊天皇)ー顕宗ー仁賢ー武烈という血統になるね」
「良く覚えているね」
「エッヘン」治子が胸を張った。その胸を異能が凝視している。スケベェな奴だ。
「武烈の姉が手白香皇女なのよ。この女性は、のちに継体天皇の奧さんになるのね」
「ふーん」
「父の市辺押磐皇子が雄略天皇に殺され、命を狙われた息子の顕宗(23代天皇)が身を隠していたの。雄略のあとに清寧が即位するんだけど、そのあとに自分が皇位を持つと主張して顕宗が即位したのね。このとき、兄の億計皇子(のちの仁賢)が即位するはずだったんだけど彼が拒否したので顕宗が即位したのね」
「前も話したと思うけれど、清寧と顕宗の間が空白でね、代わりに天皇の役目を果たしたのが飯豊青皇女なんだ。だから飯豊天皇とも呼ばれている」
「雄略に殺された市辺押磐皇子の子が顕宗と仁賢なのよ。顕宗のあとに初めは拒否していた億計天皇(仁賢天皇)が即位してるわ。その仁賢の子が武烈なのね」
「なるほど・・・で、武烈天皇の悪行ってのは?」
「うん、この表にまとめたよ」

『日本書紀』では、武烈天皇の異常な行為を多く記している。その部分を以下に列挙する。

  • 武烈二年 秋九月に、孕婦の腹を割きて其の胎を観す(妊婦の腹を裂いてその胎児を見た)。

  • 同三年  冬十月に、人の爪を解きて、芋を掘らしめたまう(人の爪を剥いで、その指で芋を掘らせた)。

  • 同四年  夏四月に、人の頭髪を抜きて、梢に登らしめ、樹の本を切り倒し、昇れる者を落死すことを快としたまふ(人の髪を抜いて木に登らせ、その木の根元を切り倒し、登らせた者を落として殺して面白がった)。

  • 同五年  夏六月に、人を塘の樋に伏せ入らしめ、外に流出づるを、三刃の矛を持ちて、刺殺すことを快としたまふ(人を溜め池の樋(水を通す木の管)に入らせ、そこから流れ出る人を三つ刃の矛で刺し殺して喜んだ)。

  • 同六年  冬十月に、百済国、麻那君を遣わして調を進る。天皇、百済の年を歴りて貢職を不脩為を以ちて、留めて放たず(百済国は麻那君(まなきし)を遣わして貢物をした。天皇は百済が長い間貢物をしてなかったと責め、抑留した)。

  • 同七年  春二月に、人を樹に昇らしめ、弓を以ちて射墜として咲いたまふ(人を木に登らせて、弓で射落として笑った)。

  • 同八年  春三月に、女をひたはだかにして、平板の上に坐ゑ、馬を牽きて前に就して遊牝せしむ。女の不浄を観るときに、湿へる者は殺し、湿はざる者は没めて官やつことし、此を以ちて楽としたまふ。(女を裸にして平板の上に座らせ、馬を引き出して、面前で馬の交尾を見させた。女たちの性器を調べ、粘液で潤っている者は殺し、潤っていない者は、奴隷として召し上げた。これが楽しみであった)。

  • また、同じ頃、池を掘って苑(庭園)を作って、鳥獣をたくさん飼った。そして、狩猟を好み、犬を走らせ馬と競争させて試した。出廷や退廷の時間もまちまちで、暴風大雨が吹こうが、お構いなしだった。贅沢にあけくれ、百姓が寒さに凍えることを意に介さず、美食をして天下の飢えを顧みなかった。さかんに侏儒(小さな人)や俳優に淫靡(いんび)な音楽を奏させ、奇怪な遊びごとを設けて、淫らな音楽を好き放題におこなって亡国の声を聞き入れなかった。昼夜をわかたずいつも宮人と酒に酔いしれ、錦繡(にしきぬいもの)を敷物としていた。綾と白絹を着ている者が多かった。

「酷いね・・・これって本当?」僕は驚いた。武烈天皇というのはまるで“精神に異常をきたしている人間”じゃないか? 天皇というのはこのような先祖ばかりの危険な血統でなりたっているのか? 
「いや、出鱈目だよ。継体天皇からの血統を正当化するために仁徳天皇の血統を悪の血統だと印象づけるために創作したんだろう」
「ああ、継体天皇は応神天皇の5世の孫という薄い血統だからね。継体天皇こそが現在の天皇家の祖先だから、悪人ばかりの仁徳の血を廃して、新たな善?の継体からの血を正当化したんだろうね」
「仁徳天皇の仁徳ってどういう意味かわかる?」
「わかんない」
「仁徳の仁とは、おもいやり。いつくしみ。儒教の根本理念として、自他を隔てず、すべてに対して、親しみ、いつくしみ、情け深く、思いやりの心という意味だよ。徳ってのは“徳のある人”とかって言うじゃん。社会的に価値のある善や正義にしたがう人格的能力のことを言うのさ」
「そういった意味の名前が付いている天皇の血筋なのにね・・・」
「それだけ継体天皇の血筋を正当化したかったのね」
「16代目の仁徳から25代目の武烈までって何かに似ているのよ」
「似ている?何に?」
「天武天皇の血統よ」
「天武は壬申の乱で天智天皇の息子大友皇子(弘文天皇)を倒して以降、称徳までの持統(天武の妻)、文武(天武の子)、元明(文武の母)、元正(文武の妻)、聖武、淳仁(天武の子である舎人親王の子、日本書紀の編集総裁を務めた)、孝謙=称徳と続くんだけど、京都にある天皇家の菩提寺・泉涌寺(せんにゅうじ)には、天武から称德天皇まで7人8代(孝謙が重祚して称徳になって8代)が祀られていないんだ」
「でも、仁徳系は祀られているんだろう?」
「推古天皇以前って実在しない天皇だと思われるから祀られていてもおかしくないのよ」
「仁徳から武烈って・・・いや、神武から武烈までか? 万世一系の数字あわせの創作だからね」
「天武から称徳までを、仁徳から武烈までの創作に置き換えたんだと思うのよ」

「神武から武烈までは確実に創作だよ。あとから説明するけど、出雲や尾張や近江や九州なんかの記録を盗んで自分たちの歴史に書き換えたものが日本書紀さ。それなのに研究者は事実のように真面目に分析しているんだ」
「分析してもいいのよ。でも、書記の天皇を倭の五王に当てはめるのはどうかと思うわ。天皇家以外を考えるべきよね

倭の五王は、邪馬台国の本流。ヤマト朝廷とは無縁だと思うんだ。すると、九州王朝か出雲王朝か・・・だね
「うん」
「やっと邪馬台国に戻りそうだね」

つづく

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