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会津に謂われがある怪僧・天海

過去を振り返る。2012年10月に投稿したブログ記事

江戸開府以降、宗教だけでなく朝廷の扱いにも口を出した僧がいます。天海です。彼は長寿であり、134歳まで生きたとか114歳、102歳、90歳までといろいろな説があるのですが、108歳というのが妥当な享年のようです。人生50年の時代に凄い長寿ですよね。家康、秀忠、家光の3代にわたって仕えたってんですから化物みたいなものです。第一、家康より年上なんですよ、この坊主は…。

天海は、比叡山で天台を学んで、天正16年(1588)川越喜多院の第27世住職になりました。慶長14年から家康に用いられ、権僧正(大僧正・僧正の次の位)に昇進し、比叡山の南光坊にも住したので”南光坊天海”と呼ばれるようになりました。川越の喜多院には家康から年領48000坪と750石が与えられ、関東の天台宗総本寺とされました。

天海は天台宗の支配権を握りたいと考えていて、幕府の宗教政策に口を出すようになります。天台宗の本山は比叡山なのですが、強引に「関東天台宗法度」を作り、川越喜多員は延暦寺を凌ぐ特権を持つようにまでなります。また日光山を支配していた座禅院の住職が他の僧と争って下山してしまったので、家康は天海を日光山座禅院の院主に任命しました。

日光山には「衆徒三十六坊(寺)」と「部屋坊二十五坊」があり、天海は、座禅院を含めた十カ寺だけを残して、三十六坊と部屋坊二十五坊の寺領すべてを没収してしまいました。家康が死んだ際には「京都の南禅寺の金地院や日光に小さなお堂を造成して、私の霊をそこに祀ってくれ」と遺言したのですが、家康の神号をめぐって、金地院崇伝と争うことになりました。

天海は「権現にすべき」、崇伝は「明神にすべき」と、共に譲らぬのですが、天海は強引に権現に決めてしまいます。二代目将軍となる秀忠が「なぜ明神ではダメなのか?」と聞くと、「秀吉に明神の称号が贈られており不吉なのです」と答えました。天海は、それ以降も数え切れぬ程の迷信で江戸幕府の陰の部分を牛耳っていくのですね。江戸の都市計画にも関わり、陰陽道や風水に基づいた江戸鎮護を構想した って話も有名です。

彼は足利代将軍の11代義澄の子であるとか12代義晴の子であるとかと言われるのですが、素性がはっきりしません。会津の蘆名氏の一族だとも言われ、十一歳の際に会津で出家して随風と名乗っていたようです。まあ、会津に謂れのある怪僧なのですね。

「日本怪僧奇僧事典」粗田浩一さん著(東京堂出版 1996年刊)より


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