平和荘綺談
*写真は、昔、撮影したモデルさん
僕は、高校を最低の成績で卒業すると、群馬県の伊勢崎市にあるJ大学に入学した。僕は生まれつき“興味のあることしかできない”性格で、学校の勉強が嫌いで、学友たちと交流することも苦手だった。これは現在でも同じで、アスペルガー症候群ではないか? と思うことがある。
高校は父親の縁故を頼った裏口入学のようなもので、3年の間、落第することもなく1976年に卒業した。大学も所謂、推薦入学というやつだったから、僕には、そもそも義務教育の学力もないのである。
大学に入って親の目が行き届かなくなると、案の定、学校には行かず、アパートに引きこもりの状態となった。20歳になって父親の会社が倒産して学費が払えなくなるまで、何をするでもなく悶々として3年の時間が過ぎるのである。
アパートは、J大学に指定された平和荘という家賃5千円のおんぼろアパートで、同じ大学に通う同い年の男たちが住んでいた。
「りんごの歌」
1976年11月 群馬県伊勢崎市の銭湯「広瀬川温泉」にて。
ガラガラガラ…バタァンッ!と、銭湯の引き戸が乱暴に閉められる。
「あぁかぁいぃ…りぃんごぅにぃ、くちびぃるぅよぅせぇてぇ…」
いつものようにその歌声が銭湯の中にこだますると、異様に背の大きな坊主頭の少年がバチャバチャバチャと洗い場を湯船に向かって走っていく。
ザバァッ!とお湯が割れて湯船からお湯があふれ出る音がする。
「おいおい…またかよ…洗ってから入れよ…」と、頭にタオルを乗せて湯船に浸かっていたお爺さんが呆れて湯船からあがってくる。いつものことなのだ。彼は近所でも有名な知的障害の男の子で、大きな声でうるさいだけで、害のない少年だった。
僕は肩まで伸びた長い髪の毛を洗いながら、チラチラと少年の行動を見ている。
「あぁかぁいぃ…りぃんごぅにぃ、くちびぃるぅよぅせぇてぇ…だぁまぁあってみている…あぁおぅいぃそぅらぁ…。りぃんごはぁなぁんにぃもいわぁないぃぃけれどぅ、りぃんごぅぅのぉおのきぃもぅちぃはぁよおくぅわぁかぁるぅぅぅ…」
「うふふふ、並木路子が歌った昔の歌だ」僕は、お湯の蛇口を目いっぱいにして洗面器にお湯を溜めると、洗い終わったシャンプーを洗い流した。
「あぁかぁいぃ…りぃんごぅにぃ、くちびぃるぅよぅせぇてぇ…だぁまぁあってみている…あぁおぅいぃそぅらぁ…」少年はまだ歌っている。
僕は何度も洗面器にお湯を溜めて髪の毛のシャンプーを全部洗い流すと、タオルを絞って股間を隠しながら湯船に向かって歩いた。すると少年は凄い勢いで湯船からあがって、またバチャバチャと走ったかと思うと、僕の脇をすり抜けて、ガラガラガラ…バッターーーン!と乱暴に戸を閉めて出て行ってしまった。
「やれやれ・・・」身体を手ぬぐいでごしごしと洗っていたお爺さんがため息をついた。
僕は湯船のお湯に片手を突っ込んで湯温を確かめてみた。「あちいっ!」熱かった。りんごの歌の少年は、熱くなかったのか…? このままでは湯船に浸かれない…。「ふう…」と数人のお爺さんたちが気持ちよさそうに湯に浸かっている。
「すいません、ちょっとだけ水入れますよ」僕は湯船に浸かる老人たちに声をかけると「若いのに、しょうがねえなぁ…いいよ」と返事が返ってきたので、湯船の横の水蛇口をひねって水を入れて熱いお湯をうめた。ドボドボドボドボ…。冷たい水が混じって熱いお湯が一気に冷めるような音がする。
しばらくしてから蛇口を止めた。まだお湯は熱いが…仕方がない。暑い湯好きの老人たちの楽しみを奪うわけにはいかない。我慢してゆっくりと右足から湯船に入る。「あつうっちちちちちちっ…」みるみる湯船に浸かっていく部分から紅く色が変わっていく。「ひょへぇっ…」ようやく肩まで浸かることができたが動けない。
「兄ちゃん、ぬるいだろぅ…」老人のひとりがからかった。
「いや…スゲー熱いっすよ…」と、情けない声で応えると、老人は「ほうれ…」とお湯をかき回した。
「うひゃあ、やめてくださいよ」泣きたくなった。
「えへっへっへ…」
湯船は深いのだが、湯船の入り口には腰掛けられる段差がある。そこに腰掛けて落ち着きたいのだが、そういう場所には必ず老人たちが腰掛けて占有している。熱さに震えて(不思議と熱くても震えてしまう)我慢しながら腰掛けられる場所が空くのを待つ。
しばらくすると、空いた…。「利根の川風ぇ…」と、濁声を発しながらひとりの老人が腰掛けていた場所から離れて湯船から出た。
僕は、そおっと中腰のまま、その場所を目指して湯船の中を移動する。しかし少し動くと、熱いお湯で肌を刺すような痛みがある。のんきに鼻歌を歌いながらタオルをザバザバと湯船に入れたり絞ったりしている老人たちの皮膚感覚が理解できない。
ようやく腰掛けられるところに到達すると湯面から胸まで出すことができた。まだお湯に浸かっている下半身が熱いが、動かさなければ大丈夫だ。ほっとため息をつく。
「あっかぃいいいりんごぉにぃ…くちびぃるよせてぇ…」僕も思わず鼻歌が出た。