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東京万景 小塚原(こづかっぱら)

梅熊大介さんの散歩写真に触発されて、地元からはるばる常磐線に乗って南千住駅で降車し、小塚原の回向院・延命寺から隅田川駅の陸橋を越えて線路沿いに歩いて三ノ輪まで散歩しました。

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南千住駅近くにある南千住回向院で、吉田松陰、関鉄之助などの桜田烈士、橋本左内、頼三樹三郎など幕末の有名人の墓にかみさんを案内して「彼らはそれぞれに事情があって、それぞれの行動を行った。吉田松陰だけは少し違うけど、倒幕までは考えていなかったのに処刑されてしまった人たちだ。彼らの処刑が、倒幕へと至る大きな要因になったんだ。彼らを生かしていれば、倒幕テロなど起こらずに徐々に新しい時代に向かっていたと思うよ。でも、俺のルーツは会津だから複雑な気持ちさ…」と知ったかぶりして説明してみました。

南千住回向院には、彼ら以外にも有名な人たちが眠っていますが、僕が以前から気になっていたのは二・二六事件の磯部浅一と奥さん登美子さんの墓です。磯部は二・二六蜂起の失敗のあと、元会津藩士の柴五郎大尉(事件時には退役していた。桜田門外の変が起きた安政7年・万延元年生れ、昭和20年に自決するが失敗し、しばらくして同年病死)に助命しましたが、処刑されてしまいました。

磯部さん

回向院と隣接する延命寺(昭和57年に回向院から分院)の敷地には小塚原刑場がありました。磔、獄門の処刑も行われたようですが、遺体捨て場のような所です。6キロほど離れた日本橋の伝馬町で処刑された罪人の遺体は、ここまで運ばれて捨てられたり、軽く土を盛られたりして放置されました。そのため周囲には異臭が拡がっていたそうです。

また武士が新刀で罪人の遺体を「試し切り」する場所でもありました。明和8年(1771)に、杉田玄白、前野良沢、中川淳庵らが「ターヘルアナトミア」の解剖図を参照しながら、罪人の遺体の解剖(腑分け)を見学したところでもあります。

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上の写真は、延命寺の山門越しに見た首切り地蔵(延命地蔵尊)です。8尺と言いますから2.4メートルもあるのです。首切り地蔵と隣の石碑(約3メートル)の巨大さは異様です。

ここから隅田川駅の陸橋を渡って浄閑寺を経て、彰義隊の墓に上野黒門などがある円通寺まで足をのばしました。暑かったぁ(@_@)

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