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尊敬と嫉妬

競合相手がたくさんいる業界では、その道の巨匠といえども、ライバルや新しい才能に嫉妬することはよくあるようですね。

漫画家では手塚治虫先生がその代表格だったようです。

上記写真のちくま文庫「COM傑作選」の上巻では手塚先生の「漫画賞の審査をして…」というエッセイ(COM1969年3月号)があって、そのなかで手厳しいことを書いていますが、実はその時代、手塚先生はひどいスランプに陥っていて、その焦る気持ちがエッセイに表れているような気がします。

以下にそのエッセイをあちこち略して少し紹介してみたいと思います。


なさけない話だが、今年ほど、まんがの不作の年はなかった。じっさい、小学館のにも講談社のにも、きわだって賞をあげようといえる人がひとりもいなかったのである。この傾向は年々ひどくなって、もう四、五年前からそうとう予選の方で甘い点をつけて、二流のまんがまで候補に出していたくらいである。今年は特にひどかった。

そして、審査員十人が集まって、検討したのだが、これという絶対的な票がぜんぜん集まらない。しまいに、恐怖まんがの楳図かずおにやったらどうだ、という冗談が出るしまつである。

石森氏のはみんなそれぞれ水準作だが、これという代表作がない。つまり安打はつづく三割打者だが、決定打がない選手みたいだ、と阿部進センセイ。ことに候補作である「サイボーグ009」は、石森氏の作品として代表的なものとはいえない。「ミュータント・サブ」は、小粒すぎる、という評。川崎のぼるのは、講談社側がとくに「巨人の星」を推したのだが、なにせ原作がべつの作家であるというハンディがある。けっきょく石森氏にきまったのだが、今後の作品に期待をかけて、という注がはいって決定的な、万場の拍手にはならなかったのだ。

小学館のまんが賞はもっとひどくて、予選で候補にのぼった4人の作品のうち、圧倒的に審査員の票を集めたのは白土三平の「忍者武芸帳」だったが、これが、六年前の作品だということを、審査員がだれも知らなかったという情けない始末で、昨年一年間の代表作、という条件から脱落した。

そのほかの候補作品は、ガタッと落ちてしまい、石川球太の「原人ピピ」、ムロタニ・ツネ象の「ビリビリビート」などあったが、けっきょく今年は“受賞作なし”という結論になってしまった。

なさけないですよ、じっさい。

けっきょく、ぼくや、馬場のぼる氏、福井英一氏が『漫画少年』を中心にかいていた時代以後、殆どユニークな新人は出なかったということだ。

昨年の受賞者水木しげる氏が、ほかの作家のをそっくり盗用したことで問題になっている。白土三平氏は児童漫画からはなれてしまって一部の大学、高校生の読者相手でしかなく、馬場のぼる氏はおとなまんがになり、何人かの新人は賞をもらったあと、消えていってしまった……。

ひとつは、読む側のことなど意に介せず、作家気どりで、独善的でかってな作品をかき、わずかな仲間にとりかこまれたり、いたずらに自己主張や主観をふりまわして、つっ走ろうとする型。

自分ではアイデアが立たぬので原作をもらって、怪獣ものだろうと忍者だろうと、その時点でうけそうな作品をかこうとする型。

児童まんがだ、と知ってもらいたい。劇画も『COM』も『ガロ』も新書版も、『ボーイズ・ライフ』もみんな子どもむけまんがなのである。

いかがでしょうか? 手塚先生は「自分以外は、みなダメだ!」と批判しているみたいでしょう? その根幹には「児童漫画」という世界から逸脱して人気を博している人たちに嫉妬しているのですね。

この頃から少年漫画雑誌は、純粋な児童向けの内容ではなく、大人でも読める内容のものに変りつつありました。時代は学生運動時代…そんな高校生や大学生や大人も「あしたのジョー」や「カムイ伝」に革命の萌芽を見いだして漫画を読むようになっていました。当然、出版社も競合雑誌が増えたことから、“販売部数”を考えて多方向に触手を伸ばしていました。手塚先生は過去の作家のように思われ、連載も少なくなっていきます。

さらに、この時代の児童も、僕のように早熟化していて、従来の「平和で安全」な漫画では満足できなくなっていました。今では当たり前になった原作ありの漫画が登場し、リアルさを謳った劇画や文学的な芸術漫画と言われるものが相次いで登場してきて読者の人気を掴んだのです。

手塚先生だって怪獣ブームを牽引することになった「マグマ大使」(1965年)の原作があったし、鬼太郎人気に対抗して「どろろ」(1967年)を描いたりしています。さらに児童漫画からの脱却を狙ったような性教育(時代ですね)をテーマにした「アポロの歌」(1970年。のちにアニメ「ふしぎなメルモ」に辿りつきます)や「やけっぱちのマリア」(1970年)を描いたり、その時点でうけそうな作品を描いています。また劇画調の「きりひと賛歌」(1971年)なども描かれています。漫画界の巨匠として出口の見えぬ迷走をしていきます。手塚先生ご自身が言う「冬の時代」(1968年-1973年)です。そして、遂に1973年には虫プロ、虫プロ商事が倒産、COMも休刊になります。まさにどん底状態。

そこに週刊「少年チャンピオン」誌の名物編集長が、手塚先生の漫画家生活30周年記念企画として手塚キャラクター・オールスター漫画を企画して、ようやく「ブラック・ジャック」(1973年)の連載がスタートします。これが思いがけなくヒット作となり、少年マガジンにも「三つ目がとおる」の連載が始まり手塚先生は復活するのです。

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