生死生命論「過去に生きる男1」
65歳の田村茂は、ある日、最寄り駅のホームで見知らぬ男に呼び止められ、突然「あなたは時間旅行できる能力がある」と言われた。
突拍子もないことを言われた田村は「新手の宗教勧誘か?それとも金をせびるケチな寸借詐欺か?」と用心した。男は自分と同年代のようで、痩身に吸い付くような黒のスーツを着て、同色のネクタイも緩めずに締めていた。奇妙な事を言うわりには柔和な表情をしていて、宗教勧誘や寸借詐欺には見えなかった。
男のまともな雰囲気から、田村は、うっかり話を聞いてしまった。
「時間旅行? 馬鹿な…そんな能力があれば、これまでに何度も使っていますよ」と言って男から距離をとろうとして出すと、男に肩を掴まれた。
「何をするんですか!」田村が男の手をはらいのけた。
「ふふふ、これまで気がつかなかっただけです。人間には、自分では気づかない能力が隠されているんですよ。通常は、一生気づかずに死んでいくのですが、あなたの能力が惜しいので声をかけさせていただいたというわけです」
「からかうのはやめて下さい」
「からかってなんかいませんよ。本当のことをお伝えしようとしているだけです。まぁ私の話を聞いて下さい」
「わかりました。僕は過去にも未来にも自由に旅行できる能力があるということですね」
「はい、しかし、過去に行くにも未来に行くにも制限がございます」
「それはどういうことですか?」
「小説や映画のように原始時代や江戸時代、それに車が空を飛ぶような未来に行くことはできないのです。時間旅行が出来るのはあくまであなたの人生の範囲なのです」
「面白くありませんね」
「そうでしょうか?」
「だって、時代を超えて時間旅行できるならば、卑弥呼や聖徳太子の実在か否かも確認できるし、織田信長や坂本龍馬にだって会いたいじゃないですか」
「それが可能だとしても、あなたがその時代に行けば、すぐに死にますよ」
「何故ですか?」
「過剰とも言えるほどに清潔な現代の免疫力しか持たない人が過去に行けば、当時の細菌やウイルスに感染して酷い死に方をするでしょうね。蠅や蚊や蚤や虱もウジャウジャいるし、街中は糞尿にまみれていますしね。SFの“宇宙戦争”をご存じでしょうか?」
「はい、小説は読んだことがありませんが、映画は観たことがあります」
「宇宙戦争では侵略してきた火星人が地球上のバクテリアに感染して死んでしまうんです。現代人が遠い過去に時間旅行したら同じ状況に陥るのですよ。映画やドラマのタイムトラベルでは、現代人が太古の昔や江戸時代に行っても病気にならないというのは、医療を無視した作り物だからです。しかし、H・G・ウエルズが、宇宙戦争以前に“タイムマシン”を書いているというのは面白いですよね」
「ああ、なるほどね。でも、自分の人生の中で時間旅行しても面白くないですね」
「そうですか? あなたの人生の中で起きた不幸な事件を防ぐことができますよ」
「過去を変えれば未来に影響が出るからダメなんでしょう?」
「ふふふ、よく、そう言われますけど、実は、あなたの人生はひとつではないのですから、過去を変えても、あなたの人生の中での未来は変わっても、他の人生には影響がありません」
「どういうことですか?」
「それは、今お話ししても理解できないと思います。おいおいわかることですから、今はやめておきましょう。とにかく今のあなたの人生における過去を変えても、何ら影響はありません。それによって他人が幸福になろうが不幸になろうが、すべては最初から決まっていたことだからです」
「よくわかりませんが…ま、そのうちわかることなんですよね」
「はい。もうひとつ言っておきますが、あなたがあなたの人生の過去や未来に行けるというのは、ある意味“不老不死”を保障できるということですよ。あなたのご家族や親族に友人、知人も同様に不老不死が保障されます」
「何故ですか?」
「あなたが明日亡くなるとすれば、亡くなる前の時間に戻れば良いからです」
「死にそうになったら何回でも戻れば良いんですね」
「はい、しかし、ひとつだけお伝えしておくことがあります」
「なんでしょう?」
「あなたが、いつ亡くなるかあなた自身にはわかりません。もしかしたら5分後に心筋梗塞とか脳梗塞で亡くなるかもしれません」
「死んだら時間を戻せば良いんでしょ?」
「残念ですが、あなたが亡くなった時点で時間旅行は不可能になります」
「どうしてですか?」
「あなたが亡くなれば、時間を戻そうとする意識もなくなってしまうからです。ですから、1分1秒でも未来に行くことは避けた方がよろしいでしょう。これからの、あなたは過去に生きるべきです」
つづく