妄想邪馬台国「出雲に神の国あり 4」
プロットも何もないので思いつきでいい加減に書いています。多くの内容の重複や齟齬がありますが、あとからまとめて修正しようと考えていますので、読んで下さる方々には、ここでお詫びさせていただきます。
「水無月治子のノートメモ」
「さっき、倭国大乱は出雲のオオクニヌシの兄弟間戦争だって言ってたね。そのあとに卑弥呼が統治した・・・って」
「卑弥呼の死のあとにも争乱が起きて、トヨが統治したというから、そっちかもしれないね」
「つまり、継体天皇の大和入りの戦いが“倭国大乱”だって言うんだね」
「お、察しがいいね。そういうことも考えられるってことさ。オオクニヌシは継体天皇だって治子メモに書いてあるだろ?」
「うん」
「継体が即位してからも九州の方で“磐井の乱”が起きるからそれも含めて“倭国大乱”ね。もちろん魏志倭人伝とは年代が合わないけど・・・」
「書記や古事記は創作だからね」僕は異能と治子を見て笑った。ふたりとも“やっと理解できたか”というような視線を僕に送るのだった。
「継体はオオクニヌシでもあり、神武天皇でもあり・・・」
「トヨでもある」
「そうそう。いずれにせよ、記紀をまとめた渡来人たちが、中国や百済や伽耶の話を日本版に置き換えるときに同じような話を無理矢理くっつけて生成したんだよ」
継体は当初、天皇に即位するのを辞退していたが、大伴金村の説得によって507年に58歳で河内の樟葉宮(現・大阪府枚方市)で即位、皇后には武烈天皇の姉・手白香皇女を迎えた。継体は天皇の傍系であり、血統的に薄いので、手白香皇女を皇女にして血統的な正当性を誇示したのだと言われる。
天皇に即位したものの、継体はその後19年間、大和入りできなかった。511年には筒城宮(京都)に、518年には弟国宮(京都)に遷ったあと、ようやく526年に磐余玉穂宮(奈良)に遷った。継体の没年齢は、書記では82歳、古事記では43歳となっている。継体が大和朝廷で執政したのは、日本書記では5年間、古事記では1年ほどとなっている。異能、治子のふたりは、なかなか大和入りできなかったこの継体天皇と、九州から上って大和入りに苦労した神武天皇のイメージを重ねたのである。
継体天皇の特徴として、百済から請われて救援の軍を九州北部に送ったものの、新羅と通じた筑紫君・磐井によって反乱が起こり、その平定に苦心するなど、朝鮮半島との密接な関係がある。継体や匂大兄皇子(安閑天皇)、大伴金村は軍事的な外交を行った。任那は百済や新羅からの軍事的圧力に対して倭の軍事力を頼り、継体らはそれを踏まえて隙があれば新羅と百済を討とうとしていた。
異能と治子は「継体時代の朝鮮半島との国々の絡みや戦いを、のちの神功皇后に重ねていると考えている。
さて、継体即位のために積極的に動いた大伴金村とはどのような人物だったのだろう?
大伴は、仁賢天皇(24代天皇)の崩御後に、小泊瀬稚鷦鷯尊(25代の武烈天皇)の命によって、平群真鳥・平群鮪親子を殺し、さらに平群一族を皆殺しにした男だ。そもそも大伴は、雄略天皇(21代)の時代に大臣になって平群一族に全盛期を迎えさせたのだが、その平群が邪魔になると手のひら返しをしたのだった。
「神武は初代天皇で紀元前711年の生まれ。継体天皇は450年生まれで26代目の天皇でしょ。その間にはもの凄い時間差があるんだけど、歴史なんていい加減なもんでさ、そんな時間差なんて関係ないんだよ」
「書記なんて“万世一系”って嘘くさい自分たちの血統の辻褄合せのための虚構物語に過ぎないのよね」
つづく