北朝鮮における証言・情報について(10月29日会見資料修正)
※この資料は10月29日記者会見で発表した資料を追加訂正したものです。発表後さらに情報が確認された失踪者が相当数おり、それを追加したのにあわせ元の資料の記述についても一部修正しました。今後も新たに確認できた情報があれば追加修正していきます。
令和6年10月30日
北朝鮮における証言・情報について
(10月29日会見資料修正)
特定失踪者問題調査会
以下、これまで調査会が得てきた特定失踪者に関する情報の中で公開できるものを整理して公開する。
特定失踪者・拉致被害者の情報は極めて重要なものだが、その中には当然ながら100%のものはなく、また北朝鮮側からの逆情報もあると思われる。私たち自身それに翻弄されてきたが、横田めぐみさんでも当初は「海岸に行ったら工作員脱出を目撃して」とか「双子の妹」と言ったように誤った情報が入っていた。事態が動かない中、可能な情報は公開すべきであると考えて以下の通り発表するものである。
① 比較的最近入手した情報の中でもいくつかのルートからの情報が重なるケース
ルートについて秘匿せざるを得ないため、下記(3)の中にも同じルートからの情報が入っている。それを含めると全体で10名程度になる(政府認定拉致被害者については別)。
遠山文子さん
山本美保さん
高敬美・剛姉弟
② 松原仁・元拉致問題担当大臣が「大臣在任中拉致されて北朝鮮にいると認識していた」と証言したケース
大澤孝司さん
藤田進さん(川口)
③ 現在確認のできた目撃ないし存在に関する証言のある特定失踪者
(敬称略・失踪時期順)
ここに名前がなく、目撃証言がなくても例えば秋田美輪さんのように拉致の蓋然性の高いケースも少なくない。逆に政府認定拉致被害者の曽我ひとみさん・ミヨシさんなどは北朝鮮側が発表するまで警察は拉致の蓋然性すら低いと認識していた。つまり一見拉致の可能性が低いかのように見えるケースであっても拉致されている可能性があるということである。特定失踪者家族会と特定失踪者問題調査会では近々林芳正内閣官房長官兼拉致問題担当大臣と面会する予定で、既に日程の調整を進めているが、その折にはこの情報について改めて質し、回答を求める予定である。
(1) 徳永陽一郎 昭和28年(1953)長崎市で失踪 当時18歳 染料店店員
平成10年(1998)~11年、北朝鮮国内で目撃したとの脱北者情報がある。その脱北者は「酔っぱらって『拉致されてきた。日本に亡命する』と言ったのを密告され、収容所に入れられた。取り調べの書類に『1954~55年日本から朝鮮に来た』と記されていた。また身体検査の時、右肩に刃物による傷跡があったことを記憶している」と証言した(本人は右肩に子供の頃鎌で切った傷跡がある)。
(2) 木村かほる 昭和35年(1960)2月27日 秋田市で失踪 当時22歳 看護学校学生
金正日の料理人こと藤本健二はじめ、複数の目撃証言がある。金賢姫が自著の中で平壌外国語大学で学んだ時の日本語教師が、木村さんに該当する可能性がある。平成14年(2002)12月脱北者の女性が「親友の両親が拉致された日本人だった」と証言し、年齢や拉致された時期から木村ではないかと思われる。また、北朝鮮にいた事のあるタイ人の女性4名から別々に聞き取りを行ったところ、「日本語を習った日本人教師」として、多くの特定失踪者の中から「最も似ている」として木村を挙げている。姉天内みどりによればしぐさの特徴などもよく似ているという。さらに脱北者ホ・ガンイルが2002年頃の数ヶ月から半年の間、平壌市内モランボン区域の日本の品物を売る外貨商店で見た女性と似ていると証言している。
(3) 宮澤康男 昭和35 年(1960)9月21日 東京都内で失踪 当時18歳 製パン会社勤務
北朝鮮で似た人を見たとの複数の目撃情報がある。
(4) 藤田慎 昭和35年(1960) 東京都内で失踪 当時29歳 会社員
北朝鮮にいるとの情報がある。
(5) 正木冽子 昭和36年(1961) 徳島市で失踪 当時19歳 看護師
「中国国内で似た女性を見た」とする目撃情報がある。
(6) 加瀬テル子 昭和37年(1962) 千葉県海上町(現旭市)で失踪当時18歳 家事手伝い
平成16年(2004)に脱北者が北朝鮮から持ち出したとされる写真が鑑定の結果「本人である可能性が極めて高い」と発表さた。平成29年(2017)政府はこの写真が第三国にいる別人のものと発表しているが、結膜(白目)部分の特徴など、別人とは考えにくい。
(7) 寺越昭二 (8) 外雄 (9) 武志 昭和38年(1963)5月12日 能登半島沿岸で漁に出たまま失踪。当時昭二36歳・外雄24歳・武志13歳
元北朝鮮工作員の安明進(アン・ミョンジン)は教官から聞いた話として、日本に侵入するところを目撃されたため、昭二は拳銃で射殺されて海に沈められ、弟の外雄と甥の武志は拉致されたとされている。外雄は1994年、北朝鮮の亀城で死去したとされる。武志は家族がアクセスできる唯一の拉致被害者だが日本政府は拉致認定していない。
(10) 藤田進(新潟) 昭和40年(1965)3月26日 新潟県青海町(現糸魚川市)で失踪 当時17歳 高校生
北朝鮮にいるとの情報がある
(11) 坂本とし子 昭和40年(1965)6月9日 東京都北区の自宅を出て失踪 当時23歳 家業の浴場業手伝い
脱北女性が「明確ではないが1993年頃に政治大学で見たことがあるような気がする」と証言。また脱北者ホ・ガンイルが平成14年(2002)頃の数ヶ月から半年の間、平壌市内モランボン区域の日本の品物を売る外貨商店で似た女性を目撃したと証言している。
(12) 日高信夫 昭和42年(1967)9月 東京都内で失踪 当時23歳 印刷工
脱北者河日(ハ・イル)が「1994年に平壌の病院で会った人に非常によく似ている。朝鮮語が下手だったので、朝鮮人ではないと思った。印刷に関する日本語と朝鮮語の書物を読んでいた」と証言している。一般に明らかになっていない癖などが脱北者の証言とほぼ一致している。
(13) 紙谷礼人 (14)速水 昭和42年(1967)11月7日 北海道雄武港から父慶五郎・兄圭剛と漁に出て失踪 当時礼人19歳・速水16歳
北朝鮮にいるという情報がある
(15) 斉藤裕 昭和43年(1968)12月1日 北海道稚内市で失踪 当時18歳 高校生
平成11年(1999)に韓国に亡命した権革(コン・ヒョク 自身が北朝鮮の国家安全保衛部に所属していたと証言)は、斉藤裕が昭和53(1978)年5月朝鮮人民軍偵察指導局の日本人教官で、翌年には泰川の軍官学校で日本語の教師をしていた。特殊部隊57軍校で「ヨンスン教官」と呼ばれていた。日本の風習や自衛隊のルール(生活規律)を指導していた。と証言。また平成12(2000)年に韓国に亡命した元北朝鮮人民軍大尉金国石は「1990年7月から1992年8月までの間、馬東煕大学の偵察指揮課程で時々見かけた」と証言。平成17年(2005)短波放送(同時期開始した「しおかぜ」と推定)で自分の名前が出たことを周囲に語ったことがきっかけになり退役。平安南道成川に移動。平成20年(2008)には平壌郊外の平城に移動したとの情報がある。
(16) 国井えり子 昭和43年(1968)12月12日 北海道網走市の自宅を出て失踪 当時17歳 高校生
脱北者が提供した写真が、鑑定により「この写真の女性を国井えり子さんとして矛盾するものはないが、今後の検討を要する」とされた。
(17) 今井裕 昭和44年(1969)3月2日 青森県弘前市の自宅を出て失踪 当時18歳 高校生
母親(故人)は失踪前から毎日一行日記をつけており平成2年(1990)1月から平成9年(1997)まで毎年一回無言電話があり、平成5年(1993)10月2日には午前9時半ころ自宅に電話で「裕を2~3日内に返す」と相手が言ったことが書かれていた。
(18) 大屋敷正行 昭和44年(1969)7月27日 旅行先の静岡県沼津市で失踪 当時17歳 高校生
権革は「1997年頃泰山にある軍官学校で講習を受けた 120人くらいの軍人の中の一人で、3カ月ほど一緒に6人部屋で生活した」と証言。その時に本人から聞いた話として「拉致された数日後、日本国内の旅館のようなところに拘束され、そこから車で移動して船に乗せられ、北朝鮮に渡った」と言っていたという。「日刊ゲンダイ」令和元年(2019)6月23日付では軍官学校で同期だった別の脱北者の証言として「1977年、平安北道泰川の朝鮮人民軍総合軍官学校で軍事訓練を受けていた。名前は「キム・ミョンホ」、当時の階級は少尉だった。拉致後、収容所で語学や思想教育を受けて泰川に移動、軍人として本格的な始めたようだ。1988年前後に労働党幹部の娘で咸鏡南道咸興市の外国語大学教員と結婚した」と報じられている。
(19) 上田英司 昭和44年(1969)11月4日 東京都渋谷区で失踪 当時20歳 受験生
安明進によれば「1990年「南朝鮮革命史跡館参拝のとき見た党幹部風の人物に酷似している」とのこと。ただし同証言では年齢と身長が合致しない。
(20) 七條一 昭和45年(1970)2月10日 石川県金沢市で失踪 当時21歳 大学生
北朝鮮にいるとの情報がある
(21) 加藤久美子 昭和45年(1970)8月8日 福岡県北九州市で失踪 当時22歳 会社員
安明進が「1988年、89年、90年金正日政治軍事大学内で横田めぐみさんと一緒にいた女性だと確信する」と述べている。
(22) 園田敏子 昭和46年(1971)12月30日 鹿児島県大崎町の自宅を夫一(はじめ)と出て失踪 当時42歳
脱北者が「家族がよく似た日本人女性を見た」との情報がある。また「敏子さんに似ている」とする北朝鮮国内で撮影された写真を平成25年(2013)に報道関係者が入手している。「Flash」平成29年(2017)12月12日号によれば「清津港に連行され、思想教育を受けた。そこで知り合った工作員と結婚し二人の男の子ができた。河面の長屋式住宅に住んでいた」と報道。また「日刊ゲンダイ」令和元年(2019)6月24日号によれば脱北者Kの証言として「平成18年(2006)頃の情報でイ・スンオクと名乗り。北東部の咸鏡北道セビョル郡河面の労働者区域に1980年代から住んでいた」としている。
(23) 生島孝子 昭和47年(1972)11月1日東京渋谷区で失踪 当時31歳 電話交換手
韓国人経済博士で一家で北朝鮮に渡り、のちに韓国に再亡命した呉吉男(オ・ギルナム)が「1985年に平壌の高級アパートに滞在中、同じアパートに住み日本語を教えていた日本人女性と会話した。その女性は生島孝子さんによく似ている」と証言した。呉吉男は後に来日し母・姉とも会って本人であると伝えている。また失踪翌日夜電話があり無言の時間が続いた後、「いまさら仕方ないだろ」との一言とともに切れた。
(24) 遠山文子 昭和48年(1973)7月 石川県羽咋市で元会社同僚男性と失踪 当時21歳 会社員
①の情報以外に権革によれば「1993年9月に清津連絡所で会い、一緒に食事をした。身長157㎝くらいでふくよか、活発な性格」と証言。
(25) 古川了子 昭和48(1973)年 千葉県市原市の自宅を出て失踪 当時18歳 会社員
安明進が「平壌の915病院に入院していた1991年秋、病院の広い敷地内で古川さんによく似た人と遭遇し対話した」と証言。安明進は平成17年(2005)~19年に提訴した特定失踪者の代表としての古川了子の拉致認定を求める行政訴訟の折に、東京高等裁判所の法廷で証人陳述している。
(26) 渡辺秀子 (27) 高敬美 (28) 高剛 昭和48年(1973)〜49年 東京都内で失踪 秀子は当時32歳。長女敬美6歳。長男剛3歳。
秀子については日本国内で殺害されたとする説と北朝鮮に拉致されたという説がある。敬美と剛は49年6月に福井県小浜市の岡津海岸から北朝鮮へ連れ去られたと見られている。また二人については比較的最近の状況について二つの異なる情報がある。
(29) 波多野幸子 昭和49年(1974)1月12日 福岡県福岡市で同僚の三浦和彦と失踪 当時18歳 会社員
代表荒木がかつて中国瀋陽で会った人物から田中実に関する情報を聞いた際、田中の妻が波多野に似ているとの証言を得た(但し本人はあくまで似ていたと言っていただけで別人の可能性はある)。
(30) 大澤孝司 昭和49年(1974)2月24日 新潟県佐渡島で失踪 当時27歳 県庁職員
北朝鮮で農業関係の仕事をしていたが既に引退しているとの情報がある。
(31) 関谷俊子 (32) 遠山常子 昭和49年(1974)7月11日 千葉市内から関谷の親戚峰島英雄の車で出たまま3人とも失踪。当時2人とも17歳 会社員(定時制高校生徒)
北朝鮮にいるとの情報がある。
(33) 萩本喜彦 昭和50年(1975)4月4日 兵庫県高砂市の自宅を出て失踪 当時35歳 工員
昭和51年(1976)に亡命した元北朝鮮工作員金東赫(キム・ドンヒョク)が昭和50年(1975)8月に平壌曲技劇場の入り口で目撃、その後も平壌で二度ほど目撃したと証言している。これと別に北朝鮮にいるという情報がある。
(34) 藤田進(埼玉) 昭和51年(1976)2月7日 埼玉県川口市の自宅を出て失踪 当時19歳 大学生
平成16年(2004)、脱北者が所持したていた身分証明書と思われる写真が、法人類学の鑑定などの結果、藤田進本人である可能性が極めて高いことが判明、後に警察も同様の結果を示した。同じ人物の写真は別のものがもう一枚ある。また安明進が「金正日政治軍事大学の会議場横の卓球場で市川修一さんとともにいるのを目撃した」と証言。藤田進拉致に関わったという人物の証言も存在する。
(35) 福留貴美子 昭和51年(1976) 羽田空港から出国して失踪 当時24歳 会社員
モンゴルに行くと言って出国したのち失踪。北朝鮮でよど号ハイジャック犯の岡本武と結婚。昭和55年3月に日本に入国し横浜市の友人宅に2泊している。その後「大阪に行ってから田舎(高知県)に帰る」と告げて別れたが、実家には姿を見せず6月24日に大阪国際空港から出国した。1988年に土砂崩れで死亡したとされるが、生存情報もある。
(36) 国広富子 昭和51年(1976)8月2日 山口県宇部市の自宅を出て失踪 当時24歳 看護師
権革が「平壌市の中央党幹部の自宅でのパーティーで、差し入れを持ってきて挨拶を交わした女性に似ている」と証言。また「羅津の外国人宿舎で生活している」との情報もある。
(37) 玉井敏明 昭和52年(1977)1月30日 大分県別府市で失踪 当時30歳 スナック経営
河日の以下の証言がある。
「マンダル山での訓練を終えた時に、マンダル山の中で会った人とよく似ている。その場所は、射撃や暗殺の訓練所で、普通の人は近寄れない場所だ。四人連れだった。アラブ人のように髭を生やしていた。彼らは、お互いに日本語で話していた。最初、特殊部隊かと思った。1985年のことだ。彼らは、階級章のない訓練服を着ていた。私が話しかけたら、彼らは手を振って、「ダメだ」というような感じだった。その10年後に、私の上司のところに行ったとき、彼は日本円をたくさん持っていた。その時に、北朝鮮は韓国に侵入するだけではなく、日本にも侵入するのだと知った」
(38) 仲里次弘 昭和52年(1977)5月 神奈川県茅ヶ崎市で失踪 当時26歳
平成14年(2002)8月、沖縄の姉宅に標準語の男の声で「次弘さんは北朝鮮に居ると思います」と不審な電話があった。また、脱北者と称する人物から「チュウさんと呼ばれる日本人が居た」旨の電話が自宅に入るも未確認。
(39) 古都瑞子 昭和52年(1977)11月14日 鳥取県米子市で失踪 当時47歳 皆生温泉の中居
北朝鮮の劇団『血の海歌劇団』で活躍した元踊り子で、大連経由で夫とともに韓国に亡命した女性、金聖愛の目撃証言。「姑の親友にとてもよく似ています。90年、清津の外貨食堂で行った私の結婚式で歌と踊りを披露してくれました(聖愛さんが口ずさんだメロディーは牧村三枝子の『みちづれ』だった)。踊りは日本の伝統的な踊りだそうで、とても上手でした。そのとき『SEIKO』の腕時計をお祝いにもらったのを覚えています。…(中略)…出会ったときは60歳ぐらい。…(中略)最後に会えたのは02年2月ごろ。そのときも姑の自宅の前に住んでいました」
(「フライデー」平成16年1月23日号)
(40) 金田龍光 昭和54年(1979) 兵庫県神戸市で失踪 当時26歳ないし27歳
政府認定拉致被害者田中実と同じ児童養護施設で育ち神戸のラーメン店「来大」で働き、田中実さんを紹介して共に働いた。田中がウイーンに向けて出国したのち、田中からの誘いでウイーンに行く気持ちになって東京へ打合せとして向かったまま一切連絡取れず。平成26年(2014)のストックホルム合意以降、北朝鮮側から日本政府に対して「北朝鮮に居て妻子がいる」と伝えられた。
(41) 山田建治 昭和54年(1979)12月18日 富山県高岡市で失踪 当時30歳
安明進が目撃した人に似ている(ただし身長が若干異なる)
(42) 小久保稔史 昭和55年(1980)1月13日 京都府舞鶴市で失踪 当時32歳 船員
北朝鮮にいるとの情報がある。
(43) 長尾直子 昭和56年(1981)3月16日 北海道札幌市の自宅を出て失踪 当時20歳
北朝鮮にいるとの情報がある。
(44) 安達俊之 昭和56年(1981)6月20日 石川県鶴来町(現白山市)の自宅を出て同僚女性とともに失踪。当時18歳 ホテル従業員
2002年に帰国した拉致被害者地村保志が、足達さんの高校時代の写真を見て「北朝鮮でよく似た人を見た」と父親に話し「平壌の売店で、夫婦だった。監督がついていたので話すことはなかったが、何度も目撃している」と話したと言われている(本人は否定)。
(45) 河嶋功一 昭和57年(1982)3月22日 神奈川県横浜市の下宿を出て失踪 当時23歳 大学生(卒業直後)
平成21年(2009)4月6日付朝鮮労働党機関紙「労働新聞」に掲載された写真が河嶋であるとの情報がある。その情報自体は否定する声もあるものの、情報の出方が矢倉富康に関わる情報と似ており、その写真自体はともかく、河嶋の北朝鮮にいることを示唆する情報であった可能性がある。
(46) 松本重行 昭和58年(1983)10月17日 京都府舞鶴沖で失踪 当時48歳 漁船員
北朝鮮にいるとの情報がある。
(47) 山本美保 昭和59年(1984)6月4日 山梨県甲府市の自宅を出て失踪 当時20歳 受験生
①の情報以外に権革は「1993年頃、5454部隊で何度か見かけた女性にそっくりだ」「運動場でバレーボールに興じている山本さんも目撃されている」と証言している。
(48) 林かな子 昭和60年(1985)11月22日 東京都世田谷区の自宅を出て失踪 当時25歳 会社員
北朝鮮にいるとの情報がある。
(49) 亀谷博昭 昭和61年(1986)1月11日 大阪府寝屋川市の自宅を出て失踪 当時23歳 会社員
中国の情報提供者から「祖父が平成2007年貿易で平壌に行ったとき会った」と伝えられている。
(50) 西安義行 昭和62年(1987)3月15日 京都府綾部市で失踪 当時21歳
北朝鮮で撮影したと思われる写真が出てきている。
(51) 尾上民公乃 昭和62年(1987)6月6日 大阪府大阪市内で失踪 当時20歳 飲食店店員
北朝鮮にいるとの情報がある
(52) 矢倉富康 昭和63年(1988) 境港から漁に出て失踪 当時36歳 漁師
平成19年(2007)平壌を訪れた日本人の撮ってきた写真の中に矢倉に似た人が写っているとの情報があった。これについては発表後当該人物の関係者が別人であると証言しているが、情報の出方自体が何らかの意図を持ったものである可能性もある。
(53) 和田幸二 昭和63年(1988)8月19日 宮崎県南郷町で失踪 当時31歳 漁師
河日が以下のように証言している。
「確信はないが、よく似た人がいた。1993年から1996年の頃の話だ。背が高い人だった。空調機の仕事をしていた。80人ぐらいのグループで仕事をしていた。その班長をしていた。労働党にも入党した。豊かな生活をしていた。1997年ごろ、突然いなくなった。その理由は、経歴詐称の罪に問われたからだったのではないか。周りの人は、彼のことを日本から来た在日朝鮮人だと言っていた。羊角島ホテルの建設に従事していた。自分はその工事で1200人ぐらいの人を管理する仕事についていた。「その中に、日本人がいる」という話を聞いたことがあった。彼は優れた技術者で、電気の仕事の班長もしていた」
(54) 大政由美 平成3年(1991)3月28日 韓国慶州市で失踪 当時23歳 大学研究生
韓国から北朝鮮に拉致されたとの情報がある。
(55) 佐々木悦子 平成3年(1991)4月22日 埼玉県浦和市(現さいたま市)当時27歳 銀行員
権革が「1994年6月頃、5454部隊の通信局で会った」「(5454部隊の中に)女性拉致被害者をひとまとめに『木蘭花組』とも呼ばれていた」「通信局のテレビモニターの前で佐々木さんを含む4人の女性(うち一人は朝鮮人)が一つのチームとしてモニターチェックをしながら解析(翻訳作業)をしていた5メートルほどの至近距離でその様子を観察した」と証言。また別の亡命者が平成7年(1995)頃、日本の風習を教えていた日本人女性の教官によく似ていると証言している。
(56) 小野寺将人 平成3年(1991)7月19日 北海道富良野市で失踪 当時24歳 ホテル従業員
北朝鮮にいるとの情報がある。
(57) 森本規容子 平成3年(1991)9月22日 兵庫県西宮市で失踪 当時19歳 会社員
北朝鮮にいるとの情報がある。
(58) 橘邦彦 平成3年(1991)10月15日 静岡県沼津市で失踪 当時19歳 専門学校生
北朝鮮にいるとの情報がある。
(59) 福山ちあき 平成3年11月3日大阪府大阪市で失踪 当時18歳 高校生
北朝鮮にいるとの情報がある。
(60) 松橋恵美子 平成4年(1992)1月15日 秋田県能代市で失踪 当時26歳 会社員
北朝鮮にいるとの情報がある。
(61) 武山京子 平成4年(1992)6月12日 北海道浜益村で失踪 当時56歳 会社員
北朝鮮にいるとの情報がある。
(62) 田中正道 平成5年(1993)6月7日 千葉県習志野市で失踪 当時44歳 建設関係の職人
北朝鮮にいるとの情報がある。
(63) 富川久子 平成6年(1994)2月14日 沖縄県石垣市で失踪 当時35歳
脱北者の「北朝鮮で目撃した女性に似ている」との情報がある。
(64) 中村三奈子 平成10年(1998)4月6日 新潟県長岡市で失踪。当時18歳 受験生
北朝鮮にいるという情報がある。
(65) 林雅俊 平成10年(1998)5月12日 岐阜県垂井町の自宅を出て失踪 当時23歳 大学院生
北朝鮮にいるという情報がある。
(66)辻出紀子 平成10年(1998)11月24日 三重県伊勢市で失踪 当時24歳 記者
北朝鮮にいるという情報がある。
これ以外にも氏名不詳の日本人拉致被害者の話は多数ある。例えば平成16年(2004)3月2日衆議院外務委員会の北朝鮮拉致・核問題小委員会で参考人として招致された李在根氏は自らも拉致被害者であり北朝鮮を脱出して帰国した韓国人であるが、次のように証言している。
「1970年4月に拉致された。韓国の赤化統一のための工作員の基地である党中央政治学校に入れられた。党学校から病院へ車で行く途中の招待所に北朝鮮人とは違った服装をした人たちがいたので、『なぜ日本人がいるのか』と指導員に聞いたら、『偉大なる金日成同志を慕っていろんな国から来ている』と答えた。正月にホテルでビリヤードをやっている20人位の日本人を目撃した。韓国政府によると韓国拉致被害者は450人だが、私の知る限りは600人以上。北朝鮮によると拉致日本人は15人だが100人以上いると思う」
梶山静六国家公安委員長が北朝鮮による拉致を認めてから36年、横田めぐみさん拉致が明らかになってから27年、5人の拉致被害者が帰国してから22年、そしてストックホルム合意から10年、この国の政府は何をしていたのだろう。少なくとも拉致された国民を取り返そうと本気で考えていたとは思えない。この現実を1人でも多くの方々が直視し、共に政府を動かす、あるいは政府が動かないなら民間ででも動かすよう、ご協力をお願いする次第である。