9060家族

ボーッとつけていたテレビ、何となく見始めたドキュメンタリーを見てかなり辛い気持ちになっている。NNNドキュメント「おいてけぼり」の9060家族の問題。90代の親が60代の子供を扶養している状態のことらしく、8050問題とかもあるらしい。

30年以上引きこもりの娘、もう1人の息子も引きこもり、その面倒を見るのは90代の父親。本来なら面倒を見られるような立場の人がまだ子供の面倒を見ている。生活は困窮していてお風呂も数日に1回、食費は月1万円ほど。

定年まで働いてゆっくり余生を過ごすはずが、貧しい生活、働かない高齢の子供、なんて悲しいことなんだろうと思った。ただ何よりもいちばん悲しかったのは、お父さんが「働かない子供を産んでしまったことを許してもらいたい」と言ったこと。結局お父さんは脳腫瘍で亡くなるのだけど、その遺書にも謝罪の言葉が書かれている。死ぬ間際まで謝り続けなければならないこと、子供を産んだことに対する後悔、またそんなことを父親に思わせてしまった子供、誰の気持ちを考えても辛すぎて涙が止まらなくなった。

そんな家族が自分のすぐ近くにもいるかもしれない、もしかしたら自分もどちらの立場になるか分からない、そんなことを考えていたらとても恐ろしくなった。

大学時代は社会福祉学を専攻していたけど、かなり心をやられることが多かった。実習で区役所の福祉課に行った時も、自分には何も出来ないことを思い知らされたり、結局お金がものをいうこと、支援する側も心を病んでしまうこと、どうにも救えない人達がいること、何を言っても理想論でしかないことが本当に辛かった。

お金さえあれば解決することも多いと思うが実際はそうはいかない、お金の管理の仕方だったり、当然だとされていることが出来ない人がたくさんいて、結局は誰かがずっと見守らなければいけない。そして普通の生活を送る人は、なるべくそういった人達を見たくはない。冷たいのではなく、誰もが自分の人生で手一杯だからだと思う。

ちょっとのズレでその後の人生がどんどん変わっていったり、死ぬより生きる方が辛い状況にある人がこの世にどれだけいるのかと考えたら、悲しくてたまらなくなった。今の世の中なら、例えば小さい頃から感じていた違和感が発達障害の影響だった〜とか、違和感に名前が着くことで和らぐ苦しみもあるのかと思うけど、少し昔だったら、よく分からない違和感を抱えたまま亡くなった人がどれだけ多くいたかと思い、それを時代のせいにされてしまうのも悲しいことだと思った。

そもそも、このドキュメンタリーを見て私はとても悲しいと思ったけど、それすらも正しい感情なのか、1人の人間の一生を悲しいなんて思っていいのだろうかとそれすらも難しいと思った。ただ、見るのをやめるのも違うと思ったし、最早いちばんそれがやってはいけないことなのかなと思ったりしたし、自分の中で覚えておくつもりでこの文章を書いている。

他人から見たら悲しい一生でも、自分が楽しいと思えているのならそれは素敵な人生であって、でも自分ですら自分の人生を肯定できないのは、本当に不幸だと思う。アンパンマンの歌で、なんのために生まれて何をして喜ぶ、分からないまま終わるそんなのは嫌だって歌詞があるけど、あれはヒトの人生に対する考え方をまさに具現化した曲だと思う。大人になってからふとなんて恐ろしい歌に感じてしまうほどにリアルだと思っている。全生物の中で自分の人生に意味があるのかどうか、なんて考えてるのはヒトだけだし、結局意味があったか無かったかは神のみぞ知る。実は人間も繁殖のためだけに作られたものなのかもしれない。だけど何か世の中に爪痕を残したい、生きていた証を作りたい、だから人は何やりたくなくても仕事をするし、若い人は夢を追うし、趣味を見つけたり、偉い人は銅像を立てちゃったりする。限られた人生の中で自分の生涯に意味をつける、こじつけでもなんでも自分が納得さえ出来ればいい、でもそれが結局死ぬまで見つからなかったら?

生まれ持った病気とかじゃなくても、生まれた家、入った学校、入った会社、色んな分岐点や人との出会いの中で大きく人生が影響されることが沢山あって、そのどれもが良い影響とは限らない。ただ、悪い方に進んでいても、どこかでまた良い影響を与える人に出会ったり、良い景色や文化に触れたり、なんやかんやでみんな結果オーライになればいいのにと思った。そんでもって自分は誰かの人生にとっていい要素になれればいいと思ったし、それなら自分にもできることなのかなと思った。私をよく知る人は私のことをお人好しだと言い、私が損な立ち回りをしていると思われることがある。幸い私の人生は、人間不信になるような出来事もなく、出会う人はみんなとても優しい人だった。もし誰かが私に助けを求めてきた時、もしかしたらそれが最後のヘルプかもしれないとおもったら、絶対に見放すことが出来ない。自分が他人に対して施す優しさは、結局は自分のためでもある。自分は常に「良い人間」でありたい。だから人には優しくする、人も車もいない夜の道路でも信号は守る、私の小さい小さい信念だ。純粋な善意以外は全部偽善と言われてしまうけど、偽善でも結局善ならいいじゃない、と思っているし、正直自分でも純粋な善意と偽善のどちらの比重が高いのか分かっていない。あんまりそこは関係ないと思っている。

話を元に戻すと、自分が誰かにした優しさがその人自身や、その人の周りの人だったり、なにかに少しでもプラスに作用すれば嬉しいと思っている。誰かの人生をまるまる救うことなんて出来ないのだから、そういったことから意識していこうと改めて思った。いつか自分の仕事と福祉を結びつけた事がしたいと思っているし、何となく久しぶりにその感情を取り戻した気がした。






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