一人の部屋にはだかでいること
自分が、普段の生活の中で、服を着ていないというときは存在しない気がする。風呂場に入るときは無意識に手早く服を脱ぎ、自動運転のように入浴のルーティーンをこなすので、裸になったのだ、という自覚は薄い。
だから、くだらない相手とくだらない自身との取るに足らない内容のセックスなどで裸になるとひどくきまりの悪い気持ちになる。
もったいぶって隠していたものは全て剥がされる。スリリングな、あるいはミステリアスな雰囲気は霧散し、男は生ぬるく現実的になり、私は間抜けな格好で突っ立ったりうろうろしたりする。
しかし、実のところ、私は私の裸の体がそう嫌いではない。昨今の私の体は、バンザイをして母親に風呂上がりの温かな水滴を拭き取ってもらった幼い頃のそれとそう変わらないような気がする。私の精神も。それなのに、私はどうして訳知り顔の大人を演じて、よく分からない、深く愛しても愛されてもいない、ただ安くて甘ったるい煙草の煙のように依存気味だった人間たちの前でハリボテみたいな関係の前に私の大切な心と体を供していたんだろう?
大人になると、かえってリアリティを売りにした恋愛ものが楽しめなくなった。不気味の谷現象みたく、現実の恋愛における上っ面の浅薄さ、はたから見た滑稽さと重ねたときに生じる微妙な歪み、非現実性、分かってない感、が脳裏にちらついてしらけてしまうのだ。うまく言えないけれど。
また、街にいる恋愛や結婚生活に充実していそうな人々がしんから幸福であるとは限らないことを知った。そんなことを考えながら一人の部屋にいる。暖房を効かせたワンルームで、湯から上がったのち、少しだけ意識的に裸でいる。化粧水を体にはたく。それから服を着る。
ある程度居心地良く整えたワンルームに裸でいることは私に今まで知らなかった軽やかさをもたらした。裸でいても間抜けじゃないよ、と誰かに言ってもらったような気持ちが不思議と芽生えた。
家の中を裸でうろつくというのは、がさつな行為の代名詞として使われがちだが、しかし、ソファがあり、ベッドがあり、ふわふわとした毛のラグが敷かれた一人の部屋で裸の時間を持つことは、がさつと言われるそれとはいささか異なる気がする。
服を着ずに生まれてきて、その姿なのだ、頭に比べてずいぶん痩せっぽちに見えるけれど、内臓に見えるけれど、これは外側なのだ。はだかの肉体全体は、まごうことなき、外見なのだ。そのことを忘れては思い出す。終電間際の繁華街でわだかまる酔っ払いを見るようにアダムとイヴを見ようか。乾杯。