見出し画像

結局それは意外と金平糖とかで解決する。

酸っぱいものが食べたいと思った次の瞬間には酸っぱいものを食べている。なるべくそういう感じに生きてきたが、なんだか最近それにも限界が来たなという気持ちになっている。

食べたいものが分からないという話ではない。現に人と出掛けて「何が食べたい?」と聞かれれば「昨日の夜ごはんは麻婆茄子だったから中華欲は満たされている。挽き肉ばかり食べているからハンバーグ的なものは食べたくない。希望としてはお粥が食べたいけれどその辺のお粥では満足できないから今度計画して一人で食べにいく。(君も行きたければこんど一緒に行きますか?)魚も実は明日食べる予定がある。挽き肉ではない肉、もしくは胃に負担がかからないさっぱり系の、具体的にはシソのおろしポン酢うどんみたいなものを食べたあとの気持ちになりたい」とちゃんと答えられる。この場合、私を長年やってきた私としては蕎麦屋に行くのが正解だと思われる。多分私は冷たい山菜キノコ蕎麦を注文する。

時々目にするアレで「レタス何個分の食物繊維」や「東京ドーム何杯分のビール」といった言い回しがある。レタスはしゃきしゃきしていて分かりやすく食物繊維の感じが伝わってきてナイスだ。東京ドームには入場したことはないけれど、後楽園の辺りから見える、あの窒素かなんかでパンパンに膨らんでいる空間がビールで満たされているのを思い描くと「ははん、なるほど。沢山なんだな」と思える。

私は、元気は酸っぱさで例えたい。これはコンビニの募集要項の「明るく元気のある方」を認める度に胃に酸っぱいものが込み上げてくるのとはあんまり関係がない。そうじゃなくて、レモンをまるごと齧ったときの酸っぱい顔をした自分を想像してみて、ちょっと笑える、その「ふふっ」という感じ何個分、がレモンn個分の元気だ。レモンは丸齧りしたことがないし、防カビ剤とワックスがすこし怖い。

だから、一人で出掛けるのには酸っぱい感じは要らない。一人で出掛けて乗り換えをまちがえても他の誰が困るわけでもなければ、そのときの苛立ちも私だけで解決できる。一人で知らない路線の知らない街に降りて知らない商店街の人と話して、そのうち雨が降ってきてまぁ良いかと思ってずんずん歩いて窓の大きな喫茶店に入ってこの街の住人でもないのにさも当たり前みたいな顔でランチセットを平らげて、あ、さっきまでネギ下げて駅前で突っ立ってた人が片手を挙げて向こうから来る人と待ち合わせの体制に入った。そして無事待ち合わせを遂行したその瞬間に、酸っぱいものが食べたくなる。レスカを追加で注文すれば解決するかと思ったけれど、この、雨が小降りの瞬間に駅に駆け込んだ方が良いなと思って、伝票をもってレジの前に立ってとびきりの「ごちそうさま」を店員さんに言ってからなんでもないようにまた知らない駅の改札をくぐる。誰とも待ち合わせがないのに、駅のホームのすこし離れたところで誰かを待っているごっこをしても快速急行が通りすぎるだけで、レモン1個分の酸っぱさを抱えたまま家に帰るのは嫌だなと思うけれど、それは小説を読んだり、デイリーポータルZを読んだり、音楽を聴いたりで散らせるはず。酸っぱいものがまだ食べたい。ケミカルなガムとかじゃ全然駄目な酸っぱさだな、と乗り換えのキオスクで買ったガムを食べながら確信する。

そういうレモン1個分の元気の足りなさの積み重ねが人の言う寂しさなのかもしれない。でも私の、寂しさ(仮)はレモン1個分の私の酸っぱい顔でできている。他の誰か由来のものでもないから寂しくない。私にしかどうすることもできないことは寂しくない。私が努力してなんとかできるものがあるのは安心すべきことだ。だから他人を懐にいれるのが怖いし、人に何かを分けてあげるのは良いけれど、分けられるのはすこし怖い。

酸っぱいものが食べたいと思った次の瞬間には酸っぱいものを食べている。なるべくそういう感じに生きてきたが、なんだか最近それにも限界が来たなという感じがしてきて、人の優しさとか、あまりの残酷さとかに不可抗力で泣かされている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?