木下都議、辞任会見の大きな誤算
「悪いのは私じゃない」?
木下富美子都議会議員が、釈明の記者会見を開いたのは約2週間前の 11月9日。その会見は、事故発覚からと四カ月と時間があったわりには準備が足りておらず、服装から話し方までツッコミどころの多い残念な記者会見となってしまいました。
今回は、突然の会見ではありましたが、前回の失敗の経験を生かして準備してきたのだろうと思っていました。流石に同じ赤いワンピースはないはずだし、きっと辞任会見なんだろうな、と。さて、実際開かれてみたらその通り「都議会議員を辞任します」という趣旨の会見ではありました。「会見で『は』ありました」です。最後まで粘り強く見ていたら「本当は辞めなくてもいいのに都議を辞めるのは、議会にいじめられたから」と言っていた記者会見だった、ということ。
お時間の無い方のために、ざっくり要約するとこんな感じに見えました。
1時間半の辞任会見をライブで見て、その後、文字起こしの原稿を読み返し、もう一度記者会見を見た私の印象です。「悪いのは私じゃない」記者会見。
鈍感力の強いタフな人、というのが私の印象でした。ディスっているだけではありません。政治家にとって鈍感力はある程度必要です。大きな仕事をガシガシ進めていくときに、周囲の人にひとりひとり気を使っているようではできないことがあるのが現実。木下都議はこの意味からは政治家に向いていたのかもしれません。だけど、その鈍感力を活用する方向が間違ってしまっていたのです。
謝らない謝罪会見
冒頭から弁護士と同席のもとで行われた今回の木下都議の会見。刑事訴追の最中と言われたら、この言い方も仕方がない、と、この時までは私も、そして多分会場に集まっていた記者さんたちも思っていたのではないでしょうか。でも、記者会見が始まった直後からこの予測は小さく少しずつ、外れていきました。
弁護士の挨拶からはじまり、木下都議にマイクが移り、本人の口から「辞表を提出することを決断いたしました」と聞いたときには「やっぱりね」くらいであまり驚きはありませんでした。今回の会見の特徴は、会見が少しずつ進むにつれて「?」が増えていったことです。例えば、冒頭「運転免許の再取得はしません」と言った後、自らが無免許で引き起こした事故について「お怪我をされた方」には「お見舞い申し上げ」るとし謝りはせず、次に示談に応じてもらったことについては「感謝を申し上げる」と、やはり謝りませんでした。ここでは被害に遭われた方には謝っていません。たぶん、本件は「示談」で解決済のことなのだから今さら改めて謝る必要はない、という意味なのでしょう。
そして、事故に関しては「刑事事件につきましては、すべてを弁護士桐生先生の方にお願いをしております」と、具体的な明言を完全に避けています。印象は謝っているようなのですが、言葉では謝っていませんでした。
これに気づいたのは、ライブで会見を見ている時ではなく、文字起こしの文章を読み直していたときです。LIVEで見ていただけでは気がつきにくいのですが、目的語と述語を見直して気づいたことでした。
そして、会見を見ていても何だか気分がスッキリしない理由はこんなところに現れていました。代表的なセリフがこれです。
ここは法廷ではない!弁護士の痛恨のミスは、場の設定を間違えたこと。
木下都議の「齢85の父親」という発言は法廷での情状酌量をもとめる発言です。つまり、桐生弁護士が設定したこの場は「記者会見」ではなく「法廷」の設定だったということです。木下都議の発言は、謝罪の言葉を使う場面と使わない場面を明確に切り分け、不必要に自分が不利になる言葉は一切使っていませんでした。更に、クライアントである木下都議をテレビの向うの敵から守るかのような怒りをもって話す桐生弁護士の姿には驚きを禁じえませんでした。特に弁護士のこの言葉には驚いたのです。
桐生弁護士は、この場を法廷と同じに扱ってしまったのではないでしょうか。
今回問題となっている事件から考えられる法の不備、議員の身分保障、憲法上の権利、推定無罪等を訴え、周囲のしてきたことはいじめだと断罪する。さらに木下都議は年老いた父親を引き合いに出すことで情状酌量を懇願。この構成はどうみても法廷の場です。でも、ここはひとりの被疑者を巡ってプロ同士が戦う「法廷の場」ではありません。責め立てる相手が検察官なら、情報の正確性や被害者の落ち度を示すのは有効でしょう。相手が裁判官であるなら、情状酌量の裁量を最大限に使ってほしいと願うことも当然です。でも、ここは謝罪、釈明の場面。そこでこの言葉や表現方法は逆効果でしかありません。しかも今回は、議員辞職の会見です。復帰の時を願うなら、メディアに取り上げられるのは、この場面が最後になるかもしれません。次に表舞台に出る時は、この最後のシーンが再度報道されることになるでしょう。「あの木下都議」の「あの」の部分がこの場面になるのです。再起を望むなら、その足掛かりになる場面がこれで良かったとは考えにくいのです。
弁護士と一緒に自己弁護に終始して「私は悪くないのに!」と辞めていった木下元都議。彼女はこれを望んでいたのでしょうか。
正しいことを伝えさえしたら納得してもらえる、ということはありません。辞任会見は、次の人生への足掛かりを作る大切な場面です。間違いを認め、全てを自責に置きなおすことで反省すべきことを全て反省し、率直に詫びる。どこで気が付いていたら、あの時の自分を止めることができたのか。後悔を示し、自分に対する罰として「辞職」する。例え辞職が必要とされる罰以上の罰だったとしても、これで再起のための足場を作ることとできるなら、どんな罰をも甘んじて受ける。その姿勢が必要だったと思うのです。
再起の未来を描くための第1歩が謝罪、辞職の会見です。今回が木下都議がはからずも自身で示唆していた再出発への大事な場面だったのではないかと思うと残念でなりません。
失敗は誰にでもある
間違いは誰にもあります。でも、失敗はその先の人生を照らす「経験値」へと昇華させることができます。そのために必要なことは、たったひとつ。間違いを犯した自分と真正面から向き合い、失敗を全て自責に置きなおして考えてみることです。ここから反省は生まれます。苦しいけど、悔しいけど、人生の筋トレはこんなところで頑張るのです。
私が考えている謝罪会見は、公人や社会的な影響力をもつ人が、再び社会と対話するための、失敗をしてしまった人の再出発のための踏まなければならない大事な儀式と考えています。人生はまだまだこれから。ここからやり直せばいいだけです。木下都議もこれがいつか経験値となり、同じような失敗で苦しむ人に寄り添い救い上げる人へとなっていってほしいと願わずにはいられません。
誰も同じ。頑張りどころは失敗したこの時点です。今、耳に優しい言葉ではなく、次に向けた一歩を進めるために必要なことを考える。応援歌が届くなら、そう思わずにはいられません。