コミュニティ研究ノート #02 「be」が軸のコミュニティって、何だ?
コルクラボに入ってからもうすぐ二ヶ月…。
出張なども重なり、なかなかオフラインでの参加ができず、ラボの掲示板やスラックを眺めたり、いくつかのイベントに参加したりと、それなりに参加してはみたけれど、コルクラボについて、まだまだ分からないことだらけです。
それでも、分からないときに、分からないことを、分からないと書くことがこの「コミュニティ研究ノート」だと思うので、えい、素直に書いてみよう!というのが、今回のnote趣旨だったりします。
今思っている第一の疑問は、
「本当のところ、ここは何をする場所なんだろう?」
ということ。(決して批判や後ろ向きな言葉じゃないよ。続き読んでね。)
4月初旬、「beの肩書きワークショップ」というイベントに参加しました。私たちが世間的に名乗る、職業などの肩書きが「doの肩書き」なのだとしたら、職業ではない、自分のあり方を言葉にしたのが「beの肩書き」。
いくつかのテーマに基づいた答えを探しながら自己分析をして、みんなに自分のことを伝えて、受け止めてもらって、相手から見た自分の肩書きという「言葉のプレゼント」をもらい、そこから自分の「beの肩書き」を見つけるという、それはそれは、とても幸せな時間でした。
ここを通して感じたのが、コルクラボも、このワークショップと同様「do」よりも「be」を大切にしているコミュニティなのでは…いうこと。
さらに、もう一つ、「コルクラボのスローガンを考えよう」というワークショップにも参加させてもらったのですが、そこに参加したみんなからたくさん出てきたキーワード…いろいろありましたが、多いなあと思ったのがこんな感じの言葉たち。
居場所を作る、自分を知る、相手を受け入れる、
繋がる、楽しい、好き、分かりあう
うん、ここも「be」って感じ。
考えてみれば、私がこれまで身を置いてきた場所の多くは、「do」にまつわるものだったと思います。部活、サークル、バイト、仕事…。「do」のもと集まった人たちと、「do」を通して友情を育むことばかりでした。逆に、「do」がない中で、どうやって人と繋がっていいかあまりイメージがわきません。それに、「do」がなくなると一緒にいる意味もなくなってしまうような繋がりも多かったように思います。
「be」で繋がる関係といえば、学校のクラスや、ご近所コミュニティになるのでしょうか? ふるさとに住んでいた学生時代は、まさにこの二つのコミュニティの中に生きていましたが、このコミュニティは自分で「選択」したものではなくて、勝手に所属していたという印象。年齢や、住んでいる場所以外、共通のなにかを持っていた訳ではありませんでした。
今、少なくない人たちが「コミュニティ」の必要性を説いていて、いくつかのコミュニティが存在しているけれど、それって「do」が基本なのだと思っていたんです。コルクラボも、佐渡島さんが「作家のファンコミュニティの重要性」を語っていたのが印象的だったので、「コンテンツを盛り上げる装置としてのコミュニティの役割」みたいなものをやっているのかな??なんてイメージもありました。
もちろん、ラボにはいろんな「do」(プロジェクト)があるし、これからもいろんなことをしていくと思います。私がまだまだ中を覗けていないということも、大いにあります。でも、参加して2ヶ月で感じるのは、なんだかもう、圧倒的に「be」なのだということ。
自ら選ぶ「be」のコミュニティって、いったいどんなものだろう?そこからどうやったら強い関係が築けるのだろう?今、どうしてそれが必要だと考えられているんだろう?そして、これからどうなっていくんだろう?そんな疑問が見えてきた一ヶ月でした。
最近、ラボ内では、「街を作る」という表現が用いられてきているけど、新入生の私は、未知の領域を探検しているみたいにも感じるのです。
それから最後にもう一つ、感じていることを書きたいと思います。
ラボではとにかく、何をするにも「安全・安心の確保」を考えます。
初めてそれを聞いた時、ここは、そんなに安全な場所で、みんなが安心して過ごす平和なコミュニティなのか…となんとなく思っていたのだけど、実は違っていました。
「安全・安心」が脅かされる要因はそこかしこにあって、それと向き合いながら、その中でどうにかして「安全・安心」を確保できるのかを、みんな本当に必死に考えていたのです。(そうだよね?)。
そして、どういう状況で安全・安心が脅かされて、どんな状況で守られるのかを、あらゆることを通して学んでいます。
昔、母親が私に言った言葉で印象に残っているものに、「信じるっていうのは、疑っているからこそ出てくる言葉だよ」というのがありました。
中学生だった私は、それもそうだなと納得したのだけど、大人になった今思うのは、はじめから疑う要素がない、つまり、信じる必要もない関係もステキだけど、(セリヌンティウスがメロスの身代わりになるところ)疑いそうになりながらも信じようとする関係も、なんだか尊いよね。ということ。(セリヌンティウスがあきらめそうになりながらもメロスを待っていたところ)。
だから、ことあるごとに、全力で「安全・安心」を確保しようとする姿、とてもいいな、信じられるなと思うのです。
と、ここまで書いてみましたが、まだまだ学び途中で、お客さんみたいな文章だな…さてさて、ここからどう変わるかな?
今月も楽しく実験していきます。