はじめに
”金刀比羅神社の歴史といわれ”
東京都の西の端青梅市の中心でありますJR青梅駅。その北正面にそびえる海抜二七三.三mの山が金刀比羅山です。
ー今から四百年以上前
青梅の村が現在の地に甲州脇往還の宿駅として作られたときに、村内鎮護と商売繁盛の神としてここに北斗七星権現が祀られました。
これが武州青梅金刀比羅神社の始まりです。
金刀比羅山は青梅村の最古の村況報告書「延享四年(一七四七)村鑑」に「七星権現宮一社」と記録される山で、北斗山と呼ばれていました。
その山にある金刀比羅宮は、青梅織物が海上運搬により全国津々浦々に販路を拡大していった江戸中期、寛政九年(一七九七)青梅村名主等青梅縞仲買商人たちが、物品の海上安全を祈って讃岐の金刀比羅権現を江戸赤坂虎ノ門の金刀比羅宮から分霊して祀ったもので、次第に北斗山も金刀比羅様の「こんぴら山」と呼ばれるようになりました。
”神様と共に創作するサロンとしての役割”
大正末か昭和初期に改築された総檜入母屋造り、向拝付きの拝殿と幣殿。
銅板葺。御祭神は、大物主命と宗徳天皇の二柱です。
ー元宮様は、北斗七星と北極星
仏教の神である七星権現は風土の守護・商売・寿命・運命を司ると言われ、大宇宙の中心である北極星は北方守護の玄武「北辰妙見・星頂輪王」と刻み国土守護・除災厄・延命の神として信仰されています。
境内からの眺望は広く、眼下に青梅村の街の繁華を望み、江戸の文人大田蜀山人がここで狂歌をつくり、山田早苗も友人達と詩歌のサロンをひらいています。弘化四年(一八四七)と嘉永二年(一八四九)江戸の著名な俳人や青梅の俳人たちが作品をつくり、画家の小林天淵の絵を添えた俳句額を奉納しています。
このように、青梅村の中心である現在の青梅駅前本町地区の安泰、商売・文化の繁栄を見守り続けてくれていた金刀比羅神社でしたが、境内の一部の崩落の危険から訪ねることの出来ない時を含め、人々の生活様式の変化など、次第に金刀比羅様の存在が忘れ去られていきます。
もうそこが「神社であること」を”認識すること”すら侭ならない状態となってしまったお話はまた別の機会に・・・