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文字も文章も、綴ることがほんとうにほんとうに苦痛だった

文字には魂がこもると、子供のころは信じていたと思います。
漢字の練習ノートや書き取りテストのときは、好きなものを表す漢字はことさら丁寧に書いていました。「犬」とか。
きれいに書けないと何度も何度も書き直していました。そうしないと、悪いことが起こりそうな気がしていました。
書いた文字や絵を人に見られることも苦手でした。自分の中身を、肉筆を通して全部見られるような気がしていたのです。
ある程度の年齢になるまでそういう感覚を持っていて、ずっと神経を尖らせていました。そりゃあ疲れるわけだ。

自分の名前が言えない子供でした。
それも、名のりを通じて自分の中身やら心の中やらを見られてしまうような、そんな恐怖があったからだと記憶しています。
相手に嫌われるのが嫌だとかそういう次元ではなくて、私が醜いことや汚いことを考えたりするのを、得体の知れない力で暴かれるのがひたすら恐ろしかったのです。
自分で自分の名前を言わないといけないシーンはたくさんあって、人知れず勝手に苦しんでいました。
まあ、周囲からは不審に思われていたことでしょう。
発音しやすい名前なら少し違ったかもしれませんが、一音一音はっきり発音しないと聞き取られにくい名前だということもあり、また、日本に多い名字によく間違われることもあり、訂正するのがいまだに少しつらいです。
歌手の谷山浩子さんが「ねこの森には帰れない」という本の中で、子供のころ「びっくり」という言葉が苦手で、口にするときは思いきって飲みこむように「びっくり」と言っていた、というようなエピソードを綴っていたと思います。
私の場合は、思い切らないと口に出せないものは自分の名前なのです。

noteに記事を書いておいて何なのですが、作文も苦手でした。
先生が「これを書け」と意図するところを理解できなかったのです。
クラスのみんなの作文を読んで「あっそういうことか。自分ひとりだけ違うことを書いてしまった」と羞恥心で消えたくなる気持ちを何度も味わいました。
たとえば、工場に見学に行ったことを書きなさいと言われて、みんなは「こうじょうではパンがたくさんできてすごいとおもいました」的な文を書く中、ひとりパン工場の見た目やスペックを延々書いてしまったとか。
読書感想文が宿題に出たのに、本のあらすじしか書かなかったとか。
どんなものを書けばいいのかわからなくて、本の真似して、くさくて不自然でつまらない文章ばかりこねくり回してしまったりとか。
そもそも、思ったこと感じたこと言わないといけないことを言語化できない子供だったと思います。出せなくて出せなくて一気に感情が爆発してまわりを困らせてしまうことも多々ありました。
大人になった今でもあまり自己分析や思考の表現は得意じゃなくて、自分のことを考えるのが苦手です。

自意識過剰で自滅している子供、と言ってしまえばそれまでかもしれませんが。
世の中の多くの人たちは、こんなことを気にせずに生きてきたんでしょうか。
気にしぃでも、若ければあまり病まずに体力でなんとか乗り切ることができたりします。
いまやあまり若くないので、気にしすぎはやめたいですね。
自分自身を心の中で遠くに置くことをおぼえたので、名乗ったり肉筆や絵や文章を見られたりすることができるようになりました。
noteで自分のことを書くときは、他人事を記録するつもりでやっています。私にとって表現とは、自分のことを他人事にする作業だったりします。
そうやって自分を守るために自分を遠くに押しやったのに、そのせいで自分のことがわからなくなってメンタルを病んだりもします。
自分との距離を適切にとること。私には難しく感じます。

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