「経験の抽象化」を考えてみる
主に観測範囲はサッカー関係者という、広いような狭いような世界との繋がりで日々のTwitter活動を展開しております。
当然サッカー界隈以外の情報もその他あちこちから得てはいますが、しかしまぁ世の中は広いと言いますか、少なくとも自分の目で見る限り「本物だなぁ」と思わされる方がいるわけです。
シンプルに「凄い人だな」の方が分かりやすいかな?
自分自身は特にサッカーにおいては色んなものが足りていない自覚が強いため、逆フィルターみたいなのがあるのかもしれないですけどね。
それはさておき、そういった人たちと何も勝負をしているわけではないので、勝ち負けみたいな感覚ではないのですが、「自分にそこまで辿り着けるだろうか」という思いは生まれてくるわけです。
自分の来歴を振り返れば、言い方を選ばなければ「君は一体どこを目指して歩いているの?」という人生だったとも言えそうです。
高校時代は親に言われるままの進路を目指しつつ、自身の気持ちと向き合った結果、考古学の道を志すに至りました。それから20代半ばまではその道を駆け抜け、でも先が見えないと思い至り、避け続けた教師を目指すというどんでん返し?が炸裂しました。
そんな感じでフラフラと教師の道に入りはしたものの、最初は辞める気満々でした。サッカーとの出会いがなければきっとそうしていたと思います。あれから20年ほど駆け抜けてきましたが、現在地が自らがかつて目指した場所なのかは分からないです。
で、最初の話に戻るわけです。周りを見渡せば凄い人がたくさんいるなと。それは老若男女問わずです。スラムダンクで桜木花道が、ジャンプシュートをひたすら練習した後で流川のシュートを見て「凄さを知る」場面があったと思います。その意味では、人の凄さを感知できるくらいには自分も成長した、と思っていいのかな?
「それでオレは何者なんだい?」
と考えた時に、「どうだろうね」と立ち止まることが増えました。多分心のどこかでは「負けたくない」「悔しいな」みたいな思いがあって、自分に何ができるのかを必死に検索しているのかなと思います。
例えばサッカー選手としてのキャリアは自分にはなくて、だとか「○○はない」のように、他者への劣等感みたいなものを持つと人間って「ないもの、足りないもの」をカウントし始める気がします。
そういう自分も冷静に見つめながら、「じゃあどうやって自分の強みを出すの?」と考えるようになりました。ワンピースでジンベエも言ってましたが「ないものはない」ですからね。じゃあ自分にもあるものをしっかり見つめようと。
それは自分として生きてきた全ての経験でした。
当たり前なんですけどね。けど、この経験をいかに自分の血肉とするか選手権なのかなと。専門用語?で「アナロジー思考」というやつです。これ実は得意分野でして、なんなら昔から意識していたというか、無意識的にしていたというか、具体と抽象の往復は反復横跳びの有り様でした。
授業でよく例え話をするんですが、これもこの思考の賜物だと思います。自分が出会う様々なことを抽象化して自身の中にストックしていくというのは、いつからそうしていたのか分からないくらいずっと取り組んできたことでもあります。
そうやって自身の経験を抽象化し、具体的な何かに転用、活用するということを積み重ねていけば、少なくとも自分の経験に基づいた「オンリーワン」にはなれるよなという当たり前のようなお話。
ここの具体と抽象の往復の精度というか、練度というかは人それぞれだと思うので、ここは頑張ろうと思っています。とは言え、具体的な何かで戦うことを放棄して、抽象化されたぼんやりした輪郭の向こうに逃げ込もうという話でもないです。
まぁ先ほども言ったように、別に勝ち負けの話ではないとは思っています。どちらかというと「自分自身の納得」のために、ですね。周囲からの評価なんてのも、その結果でしかないと思っています。
自分の人生を自分の道として歩み切る。
そのためにも経験の抽象化という手法は自分にとっては大きな支え、つまり自分の軸たり得るものだなと思います。
多分誰もがやってることですけどね_(:3」z)_
ということでおしまい。