W杯:アメリカvsイランの向こう岸へ
『スポーツに政治を持ち込んではならない』
これはサッカーに限らず、近代スポーツのあらゆる場面で柱とされているものである。近代オリンピックの父、クーベルタンもその信念を持って臨んでいたと言われている。
しかし、実際には第2次世界大戦中のベルリンオリンピック以降、開催国の国威発揚の場としてオリンピックが利用されている側面も否定できない。これはオリンピックだけでなく、他の国際的スポーツイベントにおいても同様だと言えよう。
ここでは、そのような事例の可否を論じるのではなく、実施主体も、出場者も、観戦者も、少なからず「スポーツだけ」を切り離しては臨めないという前提に立つのであれば、「その背景」を我々も知った上で見つめるべきこともあると筆者は主張したい。
以下、現時点においても政治的緊張関係にある、アメリカとイランの歩みについて簡単にまとめてみようと思う。
『アメリカとイランが試合をすることの意義を我々は知る必要がある』
某かーると氏の言葉である。実際、先述の通り、知らずに観戦したとてそれはそれで十分楽しめるはずではあるが、「その背景」を知ることで見えてくるものがあると思う。今回の記事を書くにあたり、アメリカの成り立ち、イランの成り立ち、イスラームの成り立ち等々、まずは関連する事項を一旦洗い直した結果、特に戦後の数十年の(さらにはここ40年程度の)両国の関係を見るのが分かりやすいと判断した。まずは以下の年表をご覧いただきたい。
それぞれに細かな解説をし始めると枚挙にいとまがないので、ここではポイントとなる出来事を紹介しておきたい。
まず、イランという国を地政学的に見つめると、ソ連と隣接しつつ海に面していることもあり、かつて第1次世界大戦前後においても旧ロシア帝国の南下政策における一つの要地であった。第2次世界大戦が終わってからもその地政学的意味は変わらず、ソ連の勢力拡大を阻止したいアメリカがイランに歩み寄るのも自明のことであったとも言える。
このようなアメリカの支援を背景に、イランではパフラヴィー朝2代目皇帝(パフラヴィー2世・モハンマド=レザー=シャー=パフラヴィー)は「上からの改革」として急速な西欧化政策を進めていく。これによりイランは一気に近代化を進めることとなったが、その勢いについて行けず不満を募らせる国民も増えていった。また、イスラムの教えに反すること(女性解放を唱えてヒジャブの着用を禁止する等)も多く、特にイスラム原理主義(純粋にイスラムの教えを守ろうとする人たち)の反感は募っていった。
こうして高まるパフラヴィー朝の支配への不満が爆発したのが1979年のイラン革命であった。これによりイスラムの最高指導者の1人、ホメイニ師を頂点とするイランイスラム共和国が成立した。イランイスラム共和国(以下イランと表記)は、パフラヴィー2世を重罪人としてその身柄の拘束を目指したが、亡命生活を送るパフラヴィー2世はやがて病気の治療のためにアメリカへの入国を希望するに至った。
アメリカとしてはイラン革命以降、反米に舵を切ったイランだけでなく、前帝パフラヴィー2世との距離も空ける方針であったため、この申し出には困惑した。しかし、最終的に入国を認めたことでイラン世論が爆発し、11月のアメリカ大使館襲撃事件へと繋がっていく。
この事件の詳細は各自で調べていただけたらと思うが、終結まで444日を要した大事件として世界を驚かせただけでなく、アメリカ・イラン両国間においても互いへの不信感を強めるに足る出来事であったとも言える。
事件の最中にアメリカはイランとの国交を断絶し、その直後にイラン=イラク戦争が始まる(〜1988年:アメリカはイラクを支援)。これ以降約20年以上にわたって、アメリカはイランを敵対視し、経済制裁を加える方針を継続した。その間にも何度かの軍事衝突はありつつも、本格的な衝突自体は避けられた。
この頃最も懸念されていたのが、イランによる核開発であった。IAEAの査察も入り、2003年には核開発の事実が明るみにされるもイランはこれを平和目的のもの(原子力発電)と主張。中東ではイスラエルやサウジアラビアを中心に、国際的な警戒が強まる中、イランへの経済制裁も継続されていった。
転機が訪れたのはオバマ大統領が就任して以降であった。オバマ大統領はイランとの平和的な対話を試み、2015年には核合意を成立させた。これによりイランに課されていた経済制裁は撤廃され、イラン経済は復調の兆しを見せた。
しかしさらなる転機が訪れる。核合意の2年後、2017年に就任したトランプ大統領は、2018年、突然のようにこの合意から離脱を表明、イランへの経済制裁も順次復活されるという大転換を断行した。
また、イラク周辺で起きていた軍事衝突の報復として、トランプ大統領はイランの革命防衛隊が駐留する空港を爆撃、ソレイマニ司令官を殺害した。これを受けてイランも報復のために在イラク米軍駐留基地を爆撃、さらにその4時間後にイランのテヘラン空港を離陸して直後のウクライナ航空機をミサイルで撃墜。しかしこれには国民が強い反発を示してデモが拡大した(イラン人の犠牲が多数)。実際、宗教指導者による政治体制が成立して以降、国民としては経済の停滞(主に経済制裁によるが)や政治不信による不満が募っていた。イラン当局としてもこの航空機撃墜については当初事故として発表したが、軍による誤爆であると発表し直すことで国内の政府に対する不満を逸らそうとしたと言われている。
こうして、トランプ政権下のアメリカは対イラン強行策を貫いたため、イランとしてもアメリカの政権交代までは耐える必要があると考えられていた。これは、折に触れてイランが「経済制裁で折れはしないがアメリカと事を構えるつもりもない」と声明を出していたことからもうかがえる。
そして2021年1月、アメリカでは政権交代が実現し、バイデン大統領が就任する。バイデン大統領はオバマ政権下で副大統領を務めていた人物でもあり、イランとしてはトランプ政権の方針が一定転換されることを期待していたとも思われる。しかしながら、そのイランで新たに大統領に選出されたライシ師は保守強硬派で、両国の歩み寄りは難しいのではというのが大方の予想となった。
バイデン大統領の対イラン政策としては、トランプ政権よりは一定の歩み寄りは見せている(核合意への復帰も選択肢ではあるが、先に核開発を放棄せよ、と要求)。しかし、オバマ政権ほどの宥和的な姿勢でもない。
ともすれば、事あるごとに「イランへの攻撃は辞さない」という声明を出したりだとか、9月にイランで発生したヒジャブ着用違反の女性が逮捕され死亡した件についてもこれを非難する声明を出している。
このように、「政治的」側面で見るとアメリカとイランの間にはまだまだ大きな溝が横たわっていることが分かる。そして、今回のW杯に出場する選手たちの年齢層を考えるなら、アメリカからの経済制裁に苦しんできた世代そのものとも言える。あえて「そちら側」目線で見るのであれば、きっとアメリカへの並々ならぬ思いを胸にピッチに立つのだろう・・のようなものが透けて見えるのかもしれない。
しかし、である。それらはきっと「ゼロ」ではないであろう。だが「すべて」でもないと思われる。傍観者として眺める側の論理としては「0か100か」はとても分かりやすい。それゆえに「対立項」として単純化しがちでもある。筆者としては、「この両国の試合は色々ややこしいぞ」という風に見て欲しいのではなく、そんな背景を見つめた上で、どのような「サッカー」がそこで表現されるのかに注目して欲しいと思っている。
とは言え、前回W杯でのスイスvsセルビアにおいて、シャキリ選手たちが世に示したメッセージも記憶に新しい。あのようなことを歓迎する必要はないが、仮に同様なことが起きたとして、彼らのメッセージの背景にどのような歴史が存在しているのかを推し量ることは無意味ではないと思いたい。
この対戦も、ここまで色々背景を語りながら、「なーんだ、結局何も起きずに普通にいい試合だったじゃないか」となるのが良いのだと思う。けれども、歴史を学ぶ身としてはどうしてもここから何か見えるのではないだろうかと考えてしまうのである。
で、実際の対戦はというと・・・
それはみなさんが見届けてください笑
試合の分析?
・・・・・・・え???