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察する力が足りない?中国語が私のストレスを軽減する理由

『水筒を持ってきてください』とお便りに書いたら空っぽの水筒を持たせた親がいる(W

なるほど〜

わたしのことかな?って思ってしまいました。

昔から言われたことは理解できますし、それなりに社会性もあるので、何とか仕事もタスクもこなせるのですが、書かれていないことを察する能力が欠けているのか、こういうミスをしてしまいます。

妻とよく「言った言わない」でトラブルになりますが、これは妻氏は察する能力が高く日本人らしく、省略できるところはバンバン削る傾向があるからです。

妻には、主語を省略しないで。話題が変わったら、変わったと言葉で説明してと言っていますが、未だにお互いコミュニケーションの仕方で歩み寄れず問題が生じてしまいます。

ただ、そんなわたしも中国語でコミュニケーションをとると、ストレスがどーんと減るのを感じます。

これは、中国語が主語を省略しないという特徴があること。そして目的語を比較的明確にする言語であることが関係しているのではと推測しています。

もちろん中国人も遠回しな言い方を好みますが、誰が、どこで、何をしたかに関してはハッキリ言ってくれますので、わたしには理解しやすいのです。

ちなみに妻氏も中国語を話しますが、彼女は日本語で話すときと同じく、中国語でも主語や目的語を省略する癖があり、わたしも中国人の友人も「あんた、何を言ってますねん」状態になることがたびたびあります。

それはさておき、わたしのように日本語でコミュニケーションをとるのが難しい人は、別の言語を学ぶというのは良い方法かもしれません。

どうして相手の言っていることがわからないとか、相手に気持ちが伝わらないのは、その言語というツールが自分の能力とマッチしていないのかもしれません。

中国語の表現方法を気に入っているわたしですが、語彙の用い方には注意が必要だと思っています。

例えば、相手に許可を求める場合、また依頼をする場合、中国語では「可以吗?」という言葉を使います。

返事をする場合、問題なければ「可以」と答えるのですが、このやり取りに日本語母語者のわたしは違和感を感じてしまいます。

例えば「明日の7時までに書類を提出してくれますか」と聞き、相手から「わかりました。7時ですね。期日までに提出します」というやり取りをします。

これが中国語では「明日の7時までに書類を提出してくれますか」と質問すると「できます(可以)」と返事があります。

もちろん、中国語の可以のニュアンスは日本語と同じく丁寧なのですが、何だかこのやり取りに物足りなさを感じてしまいます。

これは、日本語のコミュニケーションが自分に影響しているのだろうとお感じています。

そんなわけで、中国語でのコミュニケーションを気に入ってはいますが、中国語が自分にとって万能というわけではなく、引き続き学習と文化への理解が必要のようです。

でも、そう考えると日本語や日本文化への理解を深めるほうが簡単なわけで、なんだかなと思ったりもします。

今日も最後まで読んでくださりありがとうございます。
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