自分の野球遍歴について ~高校卒業から草野球開始、そしてこれから~
前回の振り返り
前回、第3回(高校生編)にて、私の野球生活は最悪の結末とともに終わりを迎えました。
それから幾星霜。
私はいま、札幌で草野球をしています。
どん底まで落ちた状態から、何故また野球をやる気になったのか?
今回それを明かしていきましょう。
大学生、迷走に迷走する
地元私大の文系学部に入学した私。
この時点で、特になにか大学生のうちにやりたい事や、将来やってみたい事なんかのビジョンは、一切ありませんでした。
日々をとりあえずなんとかその場のノリでやりすごす生活。
一応、サークルにも入ったほうがいいかなと思い、いくつかの運動部・文化部に見学に行くも、結局どこにも入らず。
バイトの面接も受けてみましたが、こちらも結局採用されず。
なんとなくカリキュラムを組み、なんとなく自宅と大学を往復していました。
それでも、大学に入ったんだから勉強くらいはきっちりやろうと、そこは真面目にやっていましたが。
ちなみに経営学部だったのですが、経営学・会計学を中心とし、心理学・情報学・ビジネス英語なんかも主要科目として組み込まれていたので、各コースの必須単位は抑えつつ、情報学・心理学・英語を主に履修していましたね。
人間関係については、1年生の時こそ必修の英語クラスに何故か高校野球部の同期が2人いるというタフな状況で、他でもそこまで誰かと仲良くなることはありませんでしたが、2年生になってから、片手で数えられる程度ではありますが、数名と親密な関係を築くことに成功しました。
この友人たちとは、大学を出て10年以上が経った今でも交流が継続しています。大変ありがたいことです。
さて、肝心の野球についてですが。
いくつかのサークルに見学に行った、と前述しましたが、実は軟式野球部やソフトボール部には行きませんでした。
行こうとも思いませんでした。
大学1年生のときに野球関連で何かしたことといえば、ファイターズ戦を数回観戦に行ったり、大学の帰り道にバッティングセンターに行ったりした程度。
高校の1学年下の世代の夏大会は、周りに半ば無理矢理連れていかれて、しぶしぶ応援しましたが、本当にその程度です。
テレビで高校野球を見ることも、ただの一度もありませんでした。
それだけ、私が高校で背負った、「自分のワンプレーで、関係者全員の未来を変えてしまった」という罪悪感が、意識の奥底まで、深く深く巣食っていたのです。
それは心身の不調にも現れていました。
寝つきが悪く、朝までゲームや読書をしてやりすごしたり、胃腸の不調に悩まされたり(逆流性食道炎と過敏性腸症候群)。
そんな状況で、騙し騙しで日々を過ごしていました。
唯一、野球っぽいことをしたといえば、学部内のゼミ対抗ソフトボール大会くらいでしょうか。
野球経験者とはバレていたので、逃げるわけにもいかず、とりあえず真面目に出ました。
すごく楽しかったかかと聞かれると、別にそこまで楽しくはなかったです。
そして、あっというまに3年、4年と進級していき、就職活動の時期。
折しも経済界は前年からの大不況。
一方、私は未だにやりたいことも将来の展望も、人生の希望も何も無いような状態。
自己PR文の最初の一文字目が書けない。
おまけに就職活動者向けタイプ分析では「お前社会生活に向いてねーわ」って遠回しに言われたような結果が出る始末。
具体的には「あなたに向いている仕事」のトップ10の大半が、芸術系とかクリエイター系の職でした。
一方で「向いてない仕事」のワースト10に、営業の8タイプ(A~H)が全て入っているという有様。
そりゃあね、失敗しますよ。就活。
というか早々に心が折れて、途中で諦めました。
こうして私は無事、大学を卒業して無職になったのです。
無職で虚無な数年間
さて、無職になったとは言ったものの、その実態は半分くらいひきこもりでした。
ほとんど家から出ず、読書とゲームとネットと、ちょいちょいアニメを見る日々。
たまに単発や短期のバイトをすることはありましたが、真っ当な社会生活とは程遠い状態でした。
日々の大半をPCの前か布団の中で過ごし、とりあえず最低限の用事だけこなす。
何をしたいという欲もなし。
いや、自分で改めて書いてて実際ヤバいなこれ。
なお、高校野球については、この時点でも未だに見れるようにはなっていなかったです。
とりあえず仕事をするも……
約4年半ひきこもった後、母親の知人の紹介で、ある仕事の話をいただきました。
なんでも、システム系に強い人材を探しているとかで。
最初は乗り気ではありませんでしたが、いい加減このままの生活を続けるわけにもいかないので、意を決して受けることにしました。
待っていたのは、まあオブラートに包んで言うと、超絶ワンマンパワハラ社長率いる薄給ブラック中小企業でした。
最初のうちはシステム管理をメインに、事務仕事や現場の突発軽作業をこなしていただけでしたが、そこは慢性的に人員不足に悩まされ続けている職場。
人が抜けるたび、次から次へと新たな仕事が私の手元へやってきます。
それでもしばらくは、毎日エンジン全開でそれらを全て処理していました。
ですが、その負担は徐々に再びの心身の不調となって表面化してきます。
睡眠の問題、食欲減退、集中力の低下、興味関心の喪失、などなど。
そして、パンクしました。
心療内科に通いつつ、ほぼゼリードリンクと固形栄養食とエナドリだけを口にする状態になりながらも我慢を続けましたが、業務上のミスは明らかに増え、パフォーマンスも著しく低下してしまいました。
2回ほど交通事故未遂も起こしてますし。
結局1年耐えて、退職を申し出ます。
社長からは意味不明な提案とともに慰留を受けましたが、固辞してサヨナラしました。
東京へ行く
ブラック企業を退職し、休養に入ると、みるみるうちに体調は回復していきました。
それと時を同じくして、先に東京に出ていた大学同期の友人から、「独立して会社を作るから、一緒にやってほしい」とのお誘いをもらいます。
友人はIT系の仕事だったのですが、私はPCに触れていた期間は長く、自作PCを組むなどそちらの方面に関するある程度の見分はありながらも、広い意味でのSEとしての経験はありません。
考えた末に、「東京に引っ越して現地でハローワークの職業訓練を受け、プログラミングの基礎を身に付けてから入れてもらう」という作戦を思いつきます。
果たしてそれは成功し、東京移住と再就職の、ふたつの目標を達成しました。
満を持してのプログラマー勤務。
最初のうちは知らないことだらけでしたが、比較的すんなり入っていくことができました。
そして、入社から5ヶ月ほど経った頃、別な現場に応援で入ることになります。
ですが、ここで。このタイミングで。
再発しました。メンタルの不調が。
明らかに一度目より調子の悪くなり方が激しいです。
とはいえ、現場に入っていきなり離脱するわけにもいかないので、処方された薬の所定の1.5倍の分量を水なしで齧りながら勤務するなどして、また我慢。
まあ、そんなことをしていても、結局すぐに限界が来てしまい、最短で現場を抜けることになり、一度休職することになりました。
休職中は、これまでとはまた別な罪悪感に苛まれていましたね。
傷病手当は出ていましたが、会社に籍を置いている以上、社会保険料の負担は会社側に発生し続けます。
これが本当に申し訳なかった。
翌年、なんとか仕事に復帰するも、思ったようなパフォーマンスは出せず、求められるペースでタスクをこなせません。
そして、プロジェクトの追い込みで一晩徹夜をしたときに、限界を悟りました。
この体調でこの仕事をするのは無理だと。
退職申し出(3年ぶり2回目)。
東京で無職
またしても無職になってしまった私。しかも東京で一人暮らしの状況で。
このときが2021年の5月。
どうしたものかと思いましたが、母親と相談した結果「今年の秋に札幌に戻る」ことにしました。
それまでの間、東京でやり残したことをやろうかな、という気持ちもあるにはあったのですが、世はコロナウイルス騒動の真っただ中。
流行も2年目を迎え、ワクチン接種も進み、ある程度の落ち着きを取り戻した頃ではありましたが、実際のところ、そんなにやりたいことも、お金の余裕もありませんでした。
そんなある日、ふと思ったのです。
「久しぶりに野球してみようかな……」
何がそうさせたのかはわかりませんが。
まあ、東京に来て間もないころから、暇つぶしにYouTubeで草野球系YouTuber(qooninTV、トクサンTV、野球YouTuber向、革命軍あたり)の動画を見ていたので、そこで「軟式草野球」っていう世界のことを初めて知り、興味がなかったわけではなかったので。
早速ネットで検索すると、東京(というか関東)では、草野球の助っ人募集が掲示板で広く行われているのを見つけます。
(いわゆる3番地ってやつ)
なるほどこれだ、となったらすぐ行動。
実家から野球道具を持ってきて、自宅から自転車で行ける球場で行われる試合の助っ人に応募してみると、快くOKをいただきました。
当日。
大学のソフトボール大会を除き、野球の試合となると約15年ぶり。
ほんとに動けるのか、と不安になりつつも、先方に挨拶を済ませ、ポジションを伝えられました。
「今日、レフトお願いします」
オイオイオイオイよりによってレフトですか~そうですか~
あの悪夢の試合から約15年。
私がグラウンドに戻ってきて最初にまたここに立つことになるとは、何の因果か……。
っても、助っ人の立場で拒否なんかできませんし、ええいもうこうなったらヤケクソだ、練習試合だしミスったら謝り倒せばなんとかなるじゃろ……。
無事守り切りました。フライも捕りました。
この試合が自信を取り戻すきっかけになったのか、その後毎週末のように助っ人としてあちこちの野球場に行く日々が続きます。
バッテリー以外は全ポジションできます、という触れ込みで探していたので、応募先を見つけやすかったというのもあったでしょうか。
途中、内野守備中に左手親指をグキってやって、靱帯損傷で1ヶ月半ほど離脱した期間はありましたが……。
自宅近くの球場を中心に、時には自転車で1時間近く離れた球場にも行きました。
そのうち、何度かお邪魔していたチームから、直接メールで助っ人依頼をいただけるようにもなり。
最終的にはチームに入らないかとも誘われたのですが、先に書いた通り、この年の秋に地元に帰ることが決まっていたので、そこは丁重にお断りをしました。
他にも、助っ人に行った試合でもう一人の助っ人さんから、次にうちのチームの試合があるんだけど人が……と言われて現地調達されたりとか、チーム結成後初試合に助っ人で参加させてもらい、無事初勝利を目の当たりにできるなど、色々と良い経験をさせてもらいました。
(ニューオッズさん、野方ペンギンズさん、OTC野球部さん、T-Jokersさん、他参加させていただいたチームの皆様、ありがとうございました)
そんなこんなで、復帰最初のシーズンを無事終え、暮れに地元に戻ってきたのです。
札幌リターンズ
翌2022年4月。
昨年の助っ人で味を占めた私は、札幌でも草野球の助っ人募集が少ないながらもあることを知り、早速応募してみます。
最初の機会は合同紅白戦みたいなものだったんですが、セカンドとライトで出場し、ヒットこそ出なかったものの、守備は無難にこなしました。
そこで、ある人物(後にこの人のチームにも入ることになるんですけど)から、よかったら知り合いのチームを紹介しますよ、と言われ、入ることになったのが、現所属チーム。
この年発足した新規チームだったのですが、15年ブランクがあり、かつ札幌では草野球経験の無い私を、温かく迎え入れてくれました。
そのチームで、今まで経験の無かった投手・捕手にも挑戦し、全ポジションでフル回転。
チーム運営のお手伝いもさせていただくなどしていたら、まさかの2023年シーズンのキャプテンに任命されてしまいました。
今まで人生でキャプテンはおろか副キャプテン経験も無かったので、そんな器じゃないと断ろうかとも思いましたが、これはこれでありかなとも思い、承諾し就任となりました。
冬季は自分で室内練習の企画やとりまとめを行ったり、前述の最初のチームを紹介してくれた人物が監督を務める別チームの立ち上げに協力して、ユニフォーム発注や大会参加申し込みをしたり。
雪が溶けてからは、諸事情で監督が欠席している際に、代理で現地での責任者を務めたり。
なかなか半年間で濃密な経験をさせていただきました。
そんな頃です。魔が差したのは。
新チーム、作っちゃいます
ユニの発注もできる、試合のセッティングから現地でのやりとりもできる、室内練習の企画も、大会申込も、なんなら用具の管理も……となり。
あれ? これもしかしてチーム運営に必要なノウハウ一式、揃っちゃったんじゃ……?
そこからはもう、行動に移すのは速かったです。
チーム立ち上げまでのロードマップを組み、ユニフォームデザインのプロトタイプを作り、必要な用具なり資金なりを試算し。
これならいける、と判断したのが5月上旬のことでした。
ただまあ、新チームを立ち上げるとなると、現所属チームを抜けないまでも、少なくともキャプテン・運営メンバーからは降りる必要があり、参加率も大きく減るでしょう。
なので、いったん立ち止まり、2ヶ月ほど冷静になって考えてみることにしました。
折しも肩を痛め、しばらく試合に出られなくなっていた時期。
どうするのがベターかをゆっくり考えなおし、その間にユニフォームデザインのブラッシュアップを重ね、6月下旬を迎えて。
やはり、自分のチームを作りたい気持ちは変わりませんでした。
そして、2023年7月1日。
幹部メンバーが全員出席していたこの日の試合後、自分の考えを打ち明けました。
監督は(ちょっとボケを入れつつも)快く認めてくれました。
所属2年目で、キャプテン1年目。
そんなタイミングで主要メンバーを降りるのは、いささか薄情ではないかという思いもあります。
それでも、自分を受け入れてくれたチーム、独立を快諾してくれた監督や周囲の皆には感謝しかありません。
……って書くと今季で退団するみたいですが、とりあえず籍は残して、来季もスケジュールが合う時は参加する予定です。
練習試合や冬の合同練習も、ぜひ、と言っていただけました。
ありがたいことです。本当に。
そしてこれから
その日の夜、SNSで新チーム設立を表明。
今後は、7月中にチーム名やユニフォームデザインなどの情報を小出しにしていき、8月からメンバー募集を始める予定。
小出しにするのは、なんかちょっとずつベールを脱いでいくほうが良い感じでしょ? という、わりとどうでもいい理由です。
で、メンバーの集まり次第ですが、12月から室内練習を開始。シーズン中にどこかで1回グラウンドでの顔合わせ兼練習会を入れるかも。
1月中旬までにはユニフォームを発注し、雪解けとともに屋外活動を開始できる体制を整えようと考えています。
新チーム、作るだけなら簡単かもしれませんが、それを安定して運営してくのはなかなか大変なことでしょう。
でも、せっかく作るんだったら、メンバーも自分も、みんなが充実した活動をできるようなチームにしたいです。
当面の目標は「10年続くチーム」。
チームコンセプトや詳細情報なんかは、これも7月中のどこかか、メンバー募集開始時に公開予定です。
そんなわけで、私の野球遍歴を振り返るシリーズは、これで完結となります。
途中なかなか「こいつヤバいだろ……」って思われるような部分もあったかと思いますが、どん底を味わい、そこから這い上がろうとしている身であるからこそ、見てきたもの、経験してきたものもあったんじゃないかなぁ、と考える半生です。
それに、チームの代表になる以上、そういうところも全部さらけ出しておかないと、代表者の人となりやチームカラーがよくわからず、メンバーは集まってくれないでしょうし、入ってくれてもチームのことを気に入ってもらえないでしょうからね。
来季からはチームを運営する身として、他チームの皆様やその他の関係者様方と、これまで以上に色々とやりとりをさせていただく機会が増えるかと思います。
しっかり責任をもって、皆様と良い野球が出来ることを目指して頑張りますので、今後とも何卒よろしくお願いいたします。
おわり