毎日連載する小説「青のかなた」 第44回
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彼の言う通り水族館でイルカを繁殖させるのが難しいのなら、全国の水族館にいるイルカは別のところから「調達」しているということだ。
「アイリスは日本で捕獲されました。イルカの追い込み漁で有名な土地です。追い込み漁がどうやって行われるか知っていますか? 水中で大きな音を出してイルカたちを混乱させたあと、入り江に追い込んで捕まえるんです。大人のイルカなら、本気を出せば逃げられるかもしれません。でも仲間や子どもを守ろうとして、結局はヒトに捕らえられてしまう。アイリスもそうでした。捕獲されて、日本国内のとある水族館に売られました。価格は五百万円ほどだったそうです。一頭で五百万円。イルカを食用にする場合、一頭二万円ほどだそうです」
「そんなに大きな違いが……」
「イルカを捕獲して水族館に売る人がいなくならないことがよくわかる金額でしょう。そして、その大きなお金を出しても、イルカを買い続ける水族館も存在している。イルカは消耗品なんです。……死んだら、お金を払って調達する」
レイは目の前のプールを見つめたまま、淡々と言った。彼が何を感じているのか、その横顔からは読み取れなかった。一切の感情を省いたような声と表情だった。
「水族館に連れていかれたあとのイルカは、時間はかかりますがやがては飼育員のトレーニングに従うようになります。従わないとエサがもらえないことを学習するからです。でもアイリスは違った。絶対に人間には従わなかった。野生生物のもっとも強い本能は食欲なのに、彼女はそれを抑え込んだ。餓死を覚悟で、ヒトに反抗したんです。先に根負けしたのは飼育員の方だったそうです。彼女にはトレーニングをさせず、ただエサを与えるようになった。水族館はすぐに彼女を持て余すようになりました。集客になるイルカショーに出演しないのにエサのコストだけはかかるからです。それで、当時オープン予定だったPDRが彼女を引き取ることになったそうです。PDRに来てからも彼女はトレーニングに参加していません。他のイルカと違って、彼女がお客さんと触れ合うことがないのはそういう理由です。アイリスがトレーナーに従わないことと、彼女の生い立ちに因果関係があるかどうかは、もちろん誰にもわかりません。でも、アイリスはヒトを恨んでいるのかもしれないと僕は思っています」
「恨んでいる?」
「はい。彼女が水族館に運ばれたばかりの頃、当時の飼育係が彼女が母乳を出しているのを確認したそうです」
「それって、つまり……」
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