
毎日連載する小説「青のかなた」 第71回
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その晩から微熱が出て、光はそれをいいことにますます部屋にこもるようになった。思南や風花がいるときはキッチンやリビングにも行かない。二人が心配してくれるのはわかっていたが、顔を合わせるのがつらかった。自分が泣いている姿も、あの顔だけがぐちゃぐちゃに黒く塗りつぶされたスケッチも、光が最も人に見られたくなかったものだ。自分の一番情けない姿と、恥ずかしい秘密。それをすべて見られてしまった相手とどう接したらいいのか、光にはわからない。
結局、キャラクターデザインも仕上げることができなかった。イラストを仕事にしてもうすぐ五年になるが、依頼されたものを納品できなかったのはこれがはじめてだった。緑や会社の人たちはきっと呆れているだろう。もう仕事ももらえなくなるかもしれない。
そう思うと、あんなに帰りたかった東京が怖い場所に感じられた。でもパラオにもいたくない。どこにもいたくないし、何もしたくない。
――もう消えてしまいたい。
ベッドの上でそんなことばかり考えていると、電話が鳴った。明人だ。通話ボタンを押すと、画面に彼の顔が映る。
「なんだ、死にそうな顔して。どうしたんだよ」
明人の声を聞くと泣いてしまいそうになる。光はスマートフォンをデスクに置き、自分も椅子に座った。
「……描けなくて」
光の短い言葉を聞いても、明人は「何が?」とは聞かなかった。
「パラオの絵か? それとも、仕事?」
「両方……というか、もう、何もかも」
話していて、自分でも投げやりになっているのがわかった。
「久しぶりだな、光がそういうこと言うの」
「そうかな……」
「そうだよ。高校の頃も同じこと言ってた」
高校二年生くらいから、光は美大の推薦入学に向けて作品作りをするようになった。美大に入って今よりもいい絵を描けるようになりたかったし、何より、絵を描く以外には何の特技もない光のことを父や祖母が心配しているのをわかっていたから、安心させたかったのだ。父にも「一生、絵を描いて暮らしたいなら美大に行け」と中学の頃から言われていた。光が高校一年の頃に祖父が亡くなっていたので、そのさみしさを埋めるのにも作品作りはちょうどよかった。
順調に進んでいたはずの制作が一気に破綻したのは、修学旅行で沖縄に行ってからだ。それまでが嘘のように、筆を持つ手が動かなくなった。描きたいという意欲が湧かないというよりも、今まで自分がどのようにして絵を描いていたのかが思い出せないのだ。美大の推薦はもらえず、受験もできなかった。